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Asklepios

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***  Asklepios   ***

 

「…こんにちはー。」
研究所に併設された実験温室の中を覗き込んで、えるむはためらいがちに声をかけた。一般にも解放されたエリアではあったが、この場所で目当ての人物の他に、人影を見かけることは滅多にない。夕暮れ時に差しかかった温室の中では、斜めに弱まった日差しの為に、所狭しと並べられた珍しい植物の棚が、長い陰を引いている。

えるむがきょろきょろと辺りを見回しながら歩いていくと、その長い陰の中から、白衣の人影がゆらりと立ち上がった。そのまま無愛想に突っ立っている人影に向かって、えるむは荷物を抱えてぱたぱたと駆け寄った。

「あ、良かった、いらっしゃったんですね。お疲れさまです。お待たせしてしまったでしょうか。」
「…いや、そんなことはない。」
くたびれた白衣のポケットに両手を突っ込んだ、不貞腐れたような態度である。この人物の性格を知らなければ、ほぼ間違いなく怒っていると解釈しそうな雰囲気ではあるが、えるむは動じないどころか、いつも通りのその仕草に表情を緩めた。

「いつもお時間作って頂いて、申し訳ありませんです。やっぱりデータ転送のシステムを構築した方が…。」
「いや、それは駄目だ。」
即座に切って捨てるような物言いが返ってくる。だが言ってしまってから言葉のきつさに気付いたかのように、彼はぼそぼそと言い訳めいた言葉を続けた。

「…研究所のデータベースは、可能な限りネットワークから隔離されている方がいい。そこらの認証システムのレベルでは、俺でも簡単に破れる。」
「ええっと、あんまり無闇に、破ってみたりしないで下さいね。」
その言葉が単なる言葉のあやではなく、必要とあらば実際に大抵のことはやってのける人物の発言に、えるむはあいまいに笑いながら、データディスクと紙の資料とが入った封筒を差し出した。

「こちら今日到着分の治験データです。参加希望の患者さん、どんどん来て下さってるんですけど、もう既にデータがはっきり二極化してしまって、ダブルブラインドの意味がなさそうなので、キーオープンの検討が始まってます。抗生物質って、やっぱり凄いんですね。」

えるむの説明を聞き流しながら、白衣の人物はその場で資料を広げると、異様な速度で目を通し始めた。普通の人間なら出来る限り見たくはないと考えるような、生データの打ち出しである。だがその目が、数字の山を読み流しているのではなく、そこから浮かび上がる意味を確実に理解していることを感じながら、えるむはその様子を眺めていた。

「…効き目があると証明されたなら、出来る限り早く現場に投入した方がいい。」
「はい、前倒しで製剤化の許可が出そうなので、生産計画も急いで頂いてますです。患者さんの為にも、一刻も早く薬としてお配り出来ると、いいんですけども。でも、副作用の問題もありますし。」
「どの道一定の確率で副作用は出る。抗生物質はそういう薬だ。それでも感染爆発を食い止められるなら、先に攻めた方が勝てる。」

感情の感じられない事実だけを述べる言葉に、えるむはきりりと表情を引き締めた。そのまま、真っ直ぐに相手の目を覗き込むと、そのまなざしの強さとは対照的に静かな声で、えるむは話し始めた。
「それは、分かっています、統計確率的に、勝てるということは。でも確率論では、今目の前にいるたったひとりを、救うことが出来るとは限らない。実際に重篤な副作用が発生すれば、それは確率の問題じゃなくて、ご本人の命の問題なんです。」
「……。」

真正面から突き付けられたえるむの言葉に、彼は眩しいものを見るように、ほんの少し目を細めた。その視線をも怯まず見詰め返すえるむに向かって、やがて相手は、再びぼそりと話し始めた。
「…帝國内での患者動向のデータは。」
その言葉を聞いて、今度は慌てたのはえるむの方だった。
「え、あのう、あのですね、そういうつもりじゃなくて、症例データも一応お持ちしてますけど、解析はバトメ部隊で行ってますし」
「他人が切った解析に用は無い。」

取り付く島もない言い方に、えるむは一瞬息を止め、続いて小さくため息をついた。こうと決めたら、止めることはほぼ不可能な人物であることは確かである。しかも相手がこの道のエキスパートであり、現在行われているような通り一遍の分析とは、全く異なる視点からの解決策を模索出来る実力の持ち主であるということにも、疑う余地はない。

「確かに、統計解析の切り口は、職人芸の領域ですけども…。」
えるむがもう一度ため息をつきながら、諦めて別にしてあったファイルを差し出すと、彼は受け取るなり、それも広げて読み始めた。無意識らしい動作で邪魔になった資料を差し出してくるのを、慣れた手つきで受け取りながら、えるむは小さな声で話しかけた。

「えと、ちゃんと食べてらっしゃいますか? 今でもずいぶんオーバーワークなんですから、あんまり無理なさらないで下さいね。」
無視されるかと思ったその言葉に、意外にも彼は手を止めると、ちらりとえるむに視線を投げかけた。
「…この間のパウンドケーキは、旨かったよ。」
「あ、そうですか、良かったです。」

ほんのり照れて顔を上気させたえるむは、にこりと笑うと、足元に置いた荷物をがさごそと探り出した。
「今日は甘さ控えめで、セサミクッキーを焼いたんです。片手間でも食べられると思いますから、つまんで下さいね。こちらのポットは、今日は紅茶にしてみました。」

何気ないえるむの言葉に、彼は驚いたように眠そうな目を見張ると、そのまま無言で彼女の顔を覗き込んだ。それに気が付いたえるむは、首を傾げながら言葉を返した。
「あ、えっと、この間のコーヒーは、ちょっと不満そうにしてらしたので。他のものが良かったですか?」
「いや、紅茶にしてもらえると、その、有り難い。」
「了解しました、次回も紅茶にしますね。では、今日はこの辺で失礼しますです。」

ぺこりと頭を下げたえるむに、少しむっとしたように、白衣の人物は口元を強ばらせた。だがえるむがそのまま立ち去ろうとはせずに、もう一度彼の顔を見詰め直すと、今度はそれに気圧されたように視線を外すと、ぼそりと声を投げた。
「……ああ、それじゃ、また。」
「はい、それでは。」

えるむがぱたぱたと歩いて行くのを、彼は背後からじっと見ていた。その視線を感じ取ったかのように、えるむが入り口でくるりと振り返ると、彼はばつが悪そうに慌てて視線を横に逸らした。
「えっと、今度時間がありましたら、またここの植物のこととか、教えて下さいね。」
「…ああ、またその内に。」
ぽつりと返って来た言葉に、えるむはにっこりと微笑んだ。

 

 

 

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