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Rosa Mystica Vol.1

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 Fairy tale Vol.4

 

 

***   Rosa Mystica   ***

 

Vol.1

常春の楽園の主たる緑の植物達が、互いの存在を競うようにして、精一杯背伸びする枝葉に彩られた小道を、滑るように軽やかな足取りでえるむは進んでいた。すっかり覚え込んでしまった実験温室の順路ではあるが、日々伸びてゆく植物達の様子は、何時でも何処かが少しずつ移り変わっていて、そのささやかな成長の証を探しながら歩くのも、通い慣れた常連ならではの楽しみだろう。顔馴染みの緑達の様子を律儀に確かめ、挨拶を交わすようにしながら道を分け入ったえるむは、やがて、只でさえ華奢なテーブルが、緑に埋もれて飲み込まれてしまいそうな一角へと辿り着いた。奔放に手を伸ばした枝が、視線を遮るかのように周囲を取り囲んで作り出した、さり気ない密室の内側へと、木々の隙間を器用に縫って入り込んだえるむは、頭上から降り注ぐ明るい光に目を細めながら、きょろきょろと周囲を見回してから、躊躇いがちに声を掛けた。
「…岩神さん、いらっしゃいませんか?」

ほんの僅かの刹那耳を澄ませて、返事が無いことを確認したえるむは、手に持っていたいつものバスケットを持ち上げると、とんと軽い音を響かせながらテーブルの上へと置いて、ほっと息を吐いた。最近の岩神は、こんな風に待ち合わせの時間に遅れてくることが多い。農業博覧会での騒動が一段落した後、ふと気が付いてみると、本人すらも全く与り知らぬところで、岩神はすっかり有名人になってしまっていたのである。元々分野を問わない多才ぶりと、表面上の無愛想な態度とは裏腹に、一度関わった事柄については非常に親身で粘り強い妙な生真面目さとで、密かに周囲には頼られがちな性格だったが、その実体に適当な尾ひれのついた噂が、博覧会場での武勇伝と一緒くたに独り歩きして関係者の間へと広まってしまったらしい。結果として、予想外の方面からあれこれと仕事の依頼が舞い込むようになるのに、さして時間はかからなかった。とはいえ、そうやって自分の名前が売れるということに頓着しないばかりか、むしろ迷惑だという顔を隠しもしない岩神は、その率直さがまた評価されるという不思議な悪循環に陥っていた。先に目を付けたのはこっちなのに、博士が便利に使えないとバトメ部隊が困るじゃないのと、冗談とも本気とも付かない顔でやしなが言い放つ姿を思い出しながら、くすりと笑みをもらしたえるむは、改めて優しい視線を向け周囲の植物を眺めていた。

藩国合併に伴って敢行された、農作物を始めとする動植物から発酵関連産業に必須の微生物群に至るまで、総浚いの引っ越し騒動と、それに続いた異常気象とも言える規模の振れ幅を記録した気候変動を乗り越えて、この実験温室は藩国の伝統的植物相のシェルターとしての価値を見直されつつあった。急激な気温の変化には弱い植物達ではあるが、じっくりと時間を掛けて新しい環境に適応する柔軟性においては、他の生物種を遥かに上回るしぶとさを誇ることもまた事実である。このささやかなタイムカプセルの扉を開けて、再び植物達が外の世界へ広がっていく姿を想像し、えるむは独りその笑みを深めた。北国人の本領発揮とも言える雪深い年越しのこの時期、まだしばらく寒さの厳しい季節は続くが、肌にも充分に温かい陽射しには春の気配が潜んでいる。座ってしまうのが勿体ないとでも言いたげに歩き回り、顔を近付けて覗き込んでは植物達の様子を確かめていたえるむは、ふと涼やかな香りに誘われて振り返った。

温室内の環境を保つ為に人工的に循環させられている空気の流れは、時折計算を逃れた大きな波を作り、緑陰をざわざわと揺らす風の姿を描くことがある。香りの方向を掴みかねたえるむは、ぐるりと一周踊るように身体を廻らせてしまってから、緑の濃淡の風景の中に、場違いに冴えた美しい白の色を見出して思わず声を上げた。
「あっ、バラが咲いてる!」
いそいそとテーブルの縁を回って向こう側へと駆け寄ったえるむを、控え目に漂う花の香りが押し包んだ。自然のままに近い自由な植物の姿を楽しむこの庭の雰囲気に似付かわしい、小ぶりで素朴な花の姿と、強い香りを特徴とする白い蔓バラが、ほんの少しだけ綻んだ花びらを風に揺らしている。この場所にバラを植えたことは岩神から聞いていたものの、花が付くのはもう少し先だと思っていたえるむは、今日の呼び出しの意味に気が付いて、ほんのりとその頬を薔薇色に染めた。植え替えたばかりの幹から伸びた細い枝に、申し訳程度にまばらについたつぼみの姿を見れば、綻んだばかりのたった一輪を知らせるには、相当足繁く通わなくてはならないだろうことは間違いない。その想いにも頬を寄せるようにして、開いたばかりの白い花に顔を近付け、瑞々しいバラの香りを胸一杯に吸い込んだえるむは、その涼やかさが呼び覚ました記憶に、はたと瞳を開いた。

耳の奥で、鈴振る音が響く。バラの花の、その純白の内に密やかに沈んだ青の光のように、打ち砕かれて宙に散る軽やかな音が。えるむは、バラの香りを胸に閉じ込めて瞬間息を止め、そのままそっと周囲を見回した。木々を揺らす微かな風の音以外には、未だ誰の気配も無い。岩神がやって来るまでには、もうしばらくかかるだろう。胸に満たした息をゆっくりと解き放ちながら、えるむはもう一度、白い花へと視線を戻した。耳の奥で、記憶の奥底で、鈴振る音が響く。寄せては返す波のように、記憶の海から寄せて来て、また薄れてしまいそうな遙かな記憶を繋ぎ止めようとするかのように、えるむは静かに瞳を閉じた。そして、再びバラの気配を胸に吸い込んで、その香りを糸のように細く紡いだひっそりとした声で謡い始めた。明るい陽光の下、瞬間に切り取られた舞姿のような木々の緑に隠れるように、静かな声が満ちていく。今はもう、誰もが忘れてしまった古い古い祈りの謡。何処か物悲しいその美しい声に呼応して、記憶の中の鈴の音が煌めくように響いては、また遠ざかる。自分自身ですら覚束ない記憶を掘り起こそうとでもいうのか、細い腕が宙を泳ぎ、誰かの後を追って舞い始めた。思い出の中の白い軌跡をなぞって腕が空を払い、風を巻き込んでからふと留まっては、謡の調べに乗せられて再び宙を滑って円を描く。今ここに在るものと今は亡きものとの二人舞。

幻のような謡が緑の密室に響いていたのは、決して長い時間では無かった筈である。自分の記憶の中で響いている鈴の音を追い掛け、謡いながら舞い続けていたえるむは、音というには余りに控え目な気配を感じて、はっと我に返った。今度はその方向を正確に把握したえるむが、緑の向こう側へと視線を投げると、そこには狙い違わず、しまったという表情を在り在りと顔に書いて立ち尽くす岩神の姿があった。

 

 

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