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Job well done party Vol.5

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 Job well done party Vol.4

***   Job well done party   ***

Vol.5

空気が、幽かな、ほんの密やかな音を立てながら、震えている。甲高く細く、ゆらゆらと安定することなく蠢くような、玻璃の器の縁を指でなぞって鳴らすような、不安と苛立ちを呼び覚ます、音。記憶の奥底を揺り動かすその音に呼ばれて、柊星は、重く鈍く濁った泥酔の眠りの中から引き上げられた。その音に、覚えがあった。正確には、忘れようとしても忘れられる筈など無い、魂に刻まれた傷痕のように、柊星の内側で疼くように響き続ける音である。

この音の中心には、ある人物が存在している。まるで、その魂の持つちからが、空間を揺さぶり、波立たせてでもいるかのように、何時でもその人の周囲には、この音ならぬ音が満ちていた。これを音として聴いていたのは、もしかしたら、柊星だけだったのかもしれない。だがこの領域に守られているのなら、その外側にどんな爆音が轟き、砲弾が飛び交っていようとも、絶対に安全なのだと、仲間達の誰もが確信していた。戦場に取り残され、見捨てられた彼らを救け出したのは、確かにあの人だ、それは疑いようもない事実だった。しかし。その代償として、彼はかけがえのないものを取り上げられて、永遠に失ったのだ。

彼女自身が決めたことで、望んだことでもあるのだと、知っていた。だから、これが逆恨みというようなものでしかないことも、理解だけはしている。だが、それでも。それでも、あれと、戦わなければ。柊星は、己のまぶたを無理矢理こじ開け、夜の闇を睨み据えるようにして、まなざしを定めた。

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「…仇?」
線の細い整った顔立ちに、これ以上は無いという険しい表情を浮かべて、瑞穂は思わずそう呟いた。日常会話の文脈では、まず使われることは無いであろう物騒な単語が、正体不明の人物の口から発せられたのだから、無理もない。しかもそれが、あの柊星には全く以てそぐわない、“最愛の女”という言葉に続いたのである。問い直したというよりは、余りの違和感に、無意識のまま口をついて零れ落ちてしまった台詞に、しかし土岐と名乗った男は律儀に返事を返した。

「少なくともあいつは、そう認識していると思うんだが。そうか、柊星からは何も聞いてないんだな。」
「……別に俺は柊のお守りじゃない。」
「まあ、そう言わないでやってくれ。そうだな、確かに、簡単にあれが口を割ることはないだろう。昔と少しも変わらない、そういう強情なところは。」
薄い笑みを浮かべた、相変わらずその真意を掴み難い表情のままではあったが、土岐というその男の声には、作り物とは思えない静かな暖かさが沈んでいた。唐突で挑発的な言動とは、まるで懸け離れたその慈しみの響きに、困惑の度合いを一層深めた瑞穂は、迷いながらも再び口を開いた。

「……柊星と、知り合いなのか。」
「うん、一応、そういうことになるかな。」
「…一応?」
「こちらは彼のことを良く知っているつもりだし、向こうも知らない訳じゃないだろうが、今でも私のことが判るのかどうかは定かじゃない。」
「…仇なのにか。」
「そうだな、私もずいぶんと変わったからね。お互いに、とても変わった。まあ柊星が、私に対する怒りを忘れているとは、ちょっと思えないが。にしても、あの凶暴な狼が良き友を得ているというのは、非常に感慨深いな。」

柊星を狼と呼ぶその口振りから判断するのなら、古い知り合いということだろう。だが、親しげにニックネームを呼ぶ程に、柊星の過去を詳しく知るような人物が、同時に自分の過去、三上家に関わる詳細な情報を持っているということが、瑞穂にはにわかに信じ難かった。柊星の能力の高さに目を付けられでもしたら、三上家の闇に、彼を巻き込んでしまうかもしれない、瑞穂はずっとそれを恐れ続けてきたのである。元より瑞穂自身、三上家には何の未練も無いし、柊星にバレたりすれば、余計なお世話だとかんかんになるのは目に見えていたが、むしろ、そんな事態を回避するために、三上家と縁を切ろうとしていたと言ってもいい。

現状ではまだ、三上家には柊星を知られていないと確認する為に、瑞穂は自らの情報収集能力を駆使して、ありとあらゆるデータを把握していた。万が一の場合には、その情報網を盾として、三上家と対立することさえ辞さないと、密かに決意していた瑞穂にとっては、己の技術レベルに対する自負も含めて、そう簡単に認めてしまえる状況ではなかったのだ。相手の正体について、あまりに判断出来ないまま途方に暮れたように、珍しくも言葉を選び損ねて沈黙した瑞穂の傍らから、王島が低く押し殺した声でささやいた。
「……その人は、なつきさんの本名を知っていたんだ。」
「…本名? フルネームをですか?」
「そうだ、加賀見本家、と。」

その言葉を聞いた瑞穂の身体に、瞬間、震えが走った。どんな場面に遭遇しても、鉄壁のにこやかな冷静さを堅持していたその顔が、鋭い息を吸い込んで目を見開き、驚愕の表情で凍り付く。驚きを通り越し、それは、恐怖と呼べる表情でしか無かった。自分の言葉が瑞穂に与えた衝撃の大きさに、逆に王島が驚くその傍らで、瑞穂はよろめくように後ずさりながら、掠れる声で呟いた。
「……加賀見…ま、さか」
「へえ、放蕩息子にしてはなかなか察しがいいようだ。既に三上家の極秘情報に食い込んでいるな。確かに君の能力なら、三上のネットワークといえども侵入することは難しくないだろうね。だが三上家に反逆するとは、つまり加賀見に弓引くということだ。その覚悟が出来ないのなら、ここで手を引くんだな。」

相変わらず緊張感のない、面白半分の口調を変えない眼鏡の男とは正反対に、瑞穂はぐっと唇を噛みしめるように引き結んで、相手睨み付けた。だが視線の鋭さとは裏腹に、瑞穂のその肩がどうしようもなく小刻みに震えているのは、薄暗い酒場の照明の中でも見て取れる。王島はほんの刹那それを見やってから、腹に力を込めて息を満たしながら、背筋を伸ばして土岐という男に視線を定めた。

「……反逆とは、どういう意味ですか?」
「…王島さん、それは」
「いや、彼にも知る権利はある筈だろう。加賀見というのはね、三上の本家にあたる一族なんだよ。この藩国内においては三上家もそれなりの影響力を持っているようだが、加賀見から見れば、一門の中では最も傍流の弱小一派に過ぎない。加賀見本家の末娘に関する情報を、外部の君に流そうとしたなんて知れようものなら、瑞穂は三上家に抹殺されるかもしれないと、そういうことだ。三上も、加賀見もね、世間の常識なんて通用しない物騒な一族だということは、肝に銘じておくんだね。」
「止めろ! 軽々しくそんなことを…。」
「……後戻りできないとは、そういう意味か。」
「ま、何処の誰とも知れないような私に聞いても、納得はいかないだろうし。お互いの覚悟が決まったら、改めて瑞穂に正確な情報を教えてもらったらいい。」
「いえ、私の覚悟は既に決まっております。先程、警告だとおっしゃった、それはなつきさんに危険が迫っていると、そういう意味なのではありませんか。」
「王島さん…。」

土岐という男は、その質問には答えなかった。切れ長の美しい瞳が、王島を見て、それから意味ありげに横に流れて、瑞穂の顔を伺った。その視線を睨み返し、まるでそれを梃子にするようにして、ぎちりと顔を上げ、改めて強情そうに口元をへの字に曲げた瑞穂を見て、眼鏡の男は、場違いに柔らかな微笑みを浮かべた。
「……王島君、もうひとつお願いがあるんだが。」
「? はい」
まるで、上官に向かって返答を返すように律儀な王島の口調に、瑞穂が思わず怪訝な目を向ける。しかしそれには一向に構わず、土岐は芝居がかった優雅な動きで、何処からともなく小さな箱を取り出すと、指先に乗せて目前に掲げて見せた。

「君を見込んで、これを届けて欲しい。こちらは、なつみにお土産だ。お守りだと言って伝言と一緒にやしなに渡してくれれば、意味は通じるだろう。」
まるで手品師のような手付きで、長い指で摘んだ小箱をテーブルの上にことりと置くと、土岐は細身の身体を滑るように後退させて、その前から離れた。掴み所のない、相変わらずの口調のようでいて、その言葉に、張り詰めた何かが潜んでいるような気がした王島は、隠された緊張に弾かれたように反射的に歩みを進めて、間を置かずに小箱へと手を伸ばした。大きな手の平で、すっぽりと隠れてしまう小さな箱を押さえ込んでから、王島は躊躇いがちに声を上げた。
「…もしかしたら、大事な物なのではありませんか。」

眼鏡の男は、やはりその質問には答えなかった。再び酒場の暗がりに紛れ込んで、はっきりとは見て取れない表情とは裏腹に、不思議に良く通る、それでいてひっそりとした声が、王島と瑞穂の耳に静かに届いた。
「数少ない質問のチャンスに、なつみのことを選んでくれた君に、感謝を。今日は、佳き日だ、本当に。」
「……おい、おっさん、瑞穂、この辺りに、怪しい奴来てねーか?」
ちょうどその時、未だ覚束ない足取りながら、自分では勢いよく歩いているつもりらしい騒々しい足音を響かせて、柊星が酒場の喧噪を横切りながら声を上げた。驚いた王島と瑞穂の視線が柊星へと集中するその傍らを、黒々とした影がすり抜けてゆく。いつもなら、驚異の反射神経を発揮して、逃げるものには本能的に飛びかかってもおかしくはない柊星ではあったが、さすがにしこたま流し込んだアルコールには勝てなかったらしい。一拍遅れて、自分の横を通り過ぎた風を追って柊星が振り返ると、驚異的な速度で安全な距離を確保した眼鏡の男もまた、振り返りながらにやりと笑って、ひらひらと手を振って返した。

「柊星、ちっとも成長が無いな、お前は。」
「……げっ、てめー、まさか…。」
「ふむ、良く私だと分かったね。それじゃ。」
それだけを言い残して、土岐という男は瞬間で踵を返し、素早く酒場から姿を消した。柊星がその後を追いかけるのではと、ややあたふたと王島と瑞穂とが駆け寄ってみたものの、予想に反し、呆然とした表情で固まったまま、柊星はそこに立ち尽くしている。思わず王島と顔を見合わせてしまってから、瑞穂は恐る恐る声を掛けた。
「…柊星?」
「………なっ、なっ、なんつー格好してやがんだっ!!」

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