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2012年10月13日 (土)

青水晶

橙という立場から考える時、受け入れ難い生理的な拒否感とはもうひとつ存在する筈だ。これこそが本物のタブー、近親相姦。遺伝子という形質遺伝の法則を確認するよりも遥かに以前から、人間は経験則としてこの危険を認識してきたことになる。でも、こういう知識こそ個体単体の危機感からは程遠い、実体の掴みにくい価値の最たるものだろう。禁じられる範囲が社会、文化、時代、そして階級によって異なるということが、伝承としての知恵の形を如実に表している。

つまり、宗教というのは、こういった知恵の集合体なのだろう。根拠はまだ確認出来ていないけれども、長い文化の形成と共に伝えられてきた警告の結晶、証拠とか解説とかいうことを揃えて提出するのは、なかなか難しいものだ。ある程度は、問答無用に刷り込まなくてはならない性質のものであることも事実なのだと思う。

でも、別に人間でなくても、動物だって本能行動としてこういう性質を持っているケースは多い筈だ。ゾウアザラシだったかな、雄は自分が生まれた海岸へと戻ってきてほぼ同じ場所にテリトリーを獲得し、その範囲内に雌を囲ってハーレムを形成する。雌も基本的に生まれたその場所へと帰ってくるので、つまり雄と雌は近親である確率が非常に高い。で、雌が子供を作る相手として選ぶのは、ハーレムのリーダーである兄貴がちょっと余所見をした隙に、ご近所の雄にちょっかいをかけると。そして兄貴のテリトリーに戻ってきて出産、同族の雌同士で協力しながら、子供を育てる。良く出来ているシステムではあるが、兄貴がきちんと子供を守って育てるのかは、微妙に確実ではないと。

この考え方を動物種としての人間に適用すると。男も女も混ざって分業という集団を形成し、教育という形で伝承し発達させていく文化という武器を、生き残り戦略に採用した人類は、特定の血族が濃縮されながら繁殖していくという特徴を不可避的に持っている。で、動物的本能として、そういう遺伝子的な濃縮が危険であると感じることと、それを薄める本能が繁殖の際に発動するというのは、あるのかもしれない。結果として、自分の育った文化や種族とは異なる対象に、繁殖的な魅力を見出す本能というのも、あるんじゃないのかなと。

だからつまり。巫女は異種族から招聘されなくてはならない。セントラルの扉を開くことによって発生する無限ループに耐性を持ち、その律を整える能力が血族として顕現し存在するとしても、その特定の遺伝子が広まり過ぎれば、次に待っているのは遺伝的な濃縮の行き過ぎによる種の先鋭化だ。特定の方向に偏り過ぎた強さは、結果として環境の変化に適応していく種族としての柔軟性を失わせ、時代の移り変わりに取り残されて先細っていく危険性に直結している。単体としての人は弱いかもしれないけれども、集団としての人間という種族は、適応力という柔軟性と、文化の濃縮によって自分の外部に道具を作り出すという戦略を武器にして、地球生物界の頂点に君臨しているじゃないか。巨大化し過ぎた恐竜というかつての王者が、小さなネズミのような哺乳類に完全に敗北した、それは歴史的事実だろう。そしてその末裔たる鳥類は、形態を大きく変えながら今度こそ適応力を獲得して、陸海空三種目制覇の影なる王者として強かに生き残っている。

原種がひとつきりでは、やがて橙としては追い詰められてしまう。だから。瑠璃の王族が探すのは、玻璃の王族の血を引く花嫁なのでは。

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