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2012年10月31日 (水)

おーるはろうずいヴ

 

***   活色の航路2.99   ***

 

一人の人間のために用意された部屋としては余りにも広い、がらんとした空間には、静かな闇と、そして甘い匂いとが満ちていた。大きな室内のほんのささやかな領域だけが、暖かな灯の光をにじませて、辛うじてその闇を押し戻し、人がましい避難所を作り出すことに成功している。まるで、その領域そのものが息づいていて、密やかに呼吸してでもいるかのように、柔らかに揺らぐ光の輪の中に守られながら、みふゆは身じろぎもせずに、正に人形のように整った姿勢のまま、黒目がちの大きな瞳でじっと炎を見詰めていた。テーブルの上の小さなキャンドルの隣には、年代物らしきティーセットと、場違いに素朴な作りのガラスの瓶詰めが並んでいて、どうやらその中のジャムが、甘い匂いの正体であるようだった。

高い天井の部屋いっぱいに匂いが立ちこめるまでには、かなりの時聞を要していたが、ブルーベリーのジャムを落とし込まれた紅茶がすっかり冷めて、香りだけが取り残されるまで、みふゆはそれを口にすることもなく、炎の前に凍り付いていた。豪奢な織物をふんだんに使った長椅子は、まるでその座り心地を拒むかのようにすらりと伸びたままの主人の背に、不平を言うでもなく、華奢な身体を辛抱強く支え続けていたが、美しい黒髪を預かる栄誉は与えられそうにないままである。

小さなジャムの瓶は、はるかが先日の邂逅の際に投げて寄越したものだった。身に付けるものから口にするものまで、全てが一度は管理者のチェックを受ける日常では、何処の誰とも分からない子供が作ったジャムなど、お付の者に見付かれば直ちに取り上げられてしまうに違いない。だがみふゆがその気になれば、彼女の支配下において出来ないことなど、ある筈も無かった。そうして手品のように、水も漏らさぬ衆人環視の目を掠めて持ち込まれ、大切に隠されていたジャムの香りは、その甘さを伝えることもなく、今消えてゆこうとしていた。少しの動きもなく揺るがないみふゆの耳の中で、何度も何度も、はるかの声が響いている。帰るんじゃなくて。あの妹ならその言葉を選ぶだろうと、みふゆには分かっていた筈だった。だからこそ、焚きつけるような伝言をわざわざヤガミに運ばせたのだ。

いつかこの日が来るのだと、みふゆはずっと覚悟を決めていた。家族以外の誰一人見抜くことが出来なかった、幼いはるかの内に眠れる能力の大きさを、一族に知られてしまったならば、彼女がどんな扱いを受けることになるのかは、この炎を見るよりも明らかだった。だからみふゆは、離宮と徒名されるこの辺境の屋敷へと、はるかを隠してしまったのだ。離宮という名は、確かに一握りの関係者だけに通じる暗号だったが、同時に、もしも他の誰かに聞かれたとしても、言い訳が立つようにと選ばれた言葉でもあった。名ばかりが雅な打ち捨てられた宮殿とは、つまりは古来より、幽閉の隠語でもある。はるかが公式の場に一切出されることなく成長していく月日を、周囲の者達は何の疑いもなく、無能な血族がうっかりと有らぬことを吹き込まれ、将来の火種になることのないよう、みふゆが命じた措置なのだと信じていた。例えばそれきり、はるかがこの世から消え失せてしまったとしても、それに異議を唱える者も無いだろう。前例なら、幾らでもある。実の姉妹であろうとも、別々の勢力に担ぎ出された挙げ句、何度となく骨肉の争いを余儀無くされた古えの血筋に生まれ落ちた彼女等にとっては、そんなことはごくありふれた事件でしかない。

はるかを守るために封じたこの場所は、しかしいつの間にか、みふゆ自身にとっても、掛け替えのない安らぎの場所になっていた。敬愛する長姉とも遠く離れ、駆け引きと謀略の渦巻く巨大な古き一族を率いて、独り戦い続ける日々の隙間に、苦労してほんの僅かな時間を捻り出しては、みふゆはこの離宮へと通い続けた。帰る、その言葉に相応しい場所は、もうここしかなかったからだ。細心の注意を払って選び抜いた、実力も人格も最上級のスタッフを揃え、彼女にとっての日常レベルから言うなら、実に簡素に整えられた表向きに反し、この離宮は、数多の世界の内で最も堅牢な不落の城として構築されていた。不測の事態が勃発すれば、この場所は、掛け値無しに最後の砦となる筈だったのだ。

だが同時に、こんな小さな檻の中に、何時までもはるかを繋ぎ留めておくことなど、不可能なのだろうということも、みふゆには良く分かっていた。はるかがずっとこの離宮に収まっていたのは、彼女がこの場所を気に入っていたという、ただそれだけのことに過ぎなかった。彼女がひとたび風を望んだなら、もう留めておくことなど出来る訳が無い。いつか、はるかはこの場所から歩き始めて、はるか自身の世界を見付け、そして、自分は取り残されることになる、みふゆはそれを、望んでさえいた筈だったのだ。みふゆが当面の統率者として失策を犯さない限り、一族はもう、はるかのことなど見向きもせずに捨て置くことだろう。ヤガミという人間に対して、打算的な価値など、はるかが欠片も考慮していないことも、そもそもどんな存在であるのかすら、良く分かってはいないだろうことも、みふゆは少しも疑っていなかった。が、今更一族がはるかを取り戻そうとしたところで、あのヤガミという人物がそんなことを許しはしないと、みゆふは確信していた。彼が、はるかを守り切ることの出来る天文学的確率に稀少な存在であることも、みふゆは承知していたのだ。

なつみが早々とこの屋敷を飛び出したのも、自分もまたはるかと同じような境遇に陥ってしまうことを、恐れたからに違いない。やしなとなつみとが、このまま呼び戻されなかったとしても、はるかと同じ措置が行われたのだと、一族は勝手に信じてくれる筈だ。姉妹達を、この古き闇より救い出す、それが、みふゆの望みの全てだった。一族の価値観から言うのなら、自分の扱いがどんな意味を持つのか、如何にはるかと言えども、気が付いていなかったということはないだろう。それでもはるかは、暗い憶測に少しも惑わされることなく、みふゆを信じ続けた。はるかのあの笑顔を、守りたかった。だが、もう二度と、あの微笑みが自分を待つことはないだろう。全てが、これ以上は有り得ない程に的確に、在るべき場所へと配された。ただ、みふゆ独りを、この闇の中へと繋ぎ留めたままで。この離宮は、もう空っぽだ。

その瞬間、みふゆの背後の闇の中で、気配が動いた。この離宮でみふゆのプライベートスペースに、断りも無く侵入するような輩がいるなら、その時点で味方ではない。歴代の居並ぶ長の中でも、最も美しい死を司る凍れる血と称えられたしなやかな手足が、自動的に反応する。微塵の躊躇もなく、みふゆの身体は空を滑った。だが、そのタイムレスの反応を凌ぐ、有り得ない刹那に斬り込んで、低く優しい声が響いた。
「みふゆ」
瞬時に身体を踊らせて長椅子の端を越え、光の届かない闇の中へと身を沈めていたみふゆは、己の名を呼んだその言葉に打たれたように、キャンドルの灯火を消すために放とうとしていたティースプーンを握り締め、振り返りざまのその勢いのまま反射的に立ち上がった。押し込められたくぐもった声から、発せられた方向を掴むのは難しいが、みふゆは喘ぐように大きく吸い込んだ息を絞り出して、迷うことなく長椅子の直ぐ背後へと声を投げた。
「あ、あき様っ…。」

まるで、みふゆのその必死の声が、闇の中に引き戻されそうな人影を、この世に繋ぎ止めたとでもいうように、実在感の乏しい輪郭の溶けた姿が、ぼんやりと浮かび上がる。みふゆは並外れた身体能力を遺憾なく発揮して、その暗い人影へと一直線に突進すると、細い腕を精一杯伸ばし、自らの身を投げ打つようにして力一杯抱き締めた。小柄なみふゆよりもかなり背の高い細身の人影が、黒いスーツの腕を伸ばして、みふゆを抱き締め返す。大喜びの幼子のように躊躇い無く、人影の腕の中へと飛び込んだみふゆだったが、その胸に顔を埋めた時点で、微妙な違和感にはたと我に返った。それでもなお、少しでも腕の力を緩めたら、その人影がするりと逃げ出してしまうとでも言いたげに、しっかりとしがみついたまま、みふゆは恐る恐るの雰囲気で頭上を見上げた。

「……あ、あき様?」
「ただいま、みふゆ。」
みふゆの不信ぶりを面白がっているのか、頭上の顔は微かに唇の端を吊り上げて、柔らかな笑みを作った。みふゆの記憶とはまるで違う骨張った顔つきと意志の強さを描いたようなくっきりとした眉、真っ直ぐに通った鼻筋の上には、縁の細い眼鏡が乗っている。だが、その奥の切れ長の瞳が、見紛うことのない冴え冴えとした光を湛えているのを見て取ったみふゆは、ようやくほっとしたような笑みを見せた。
「驚かせてしまったか。でもこれなら、誰も私だとは気付かないだろう。」
「…どんな姿になろうと、あき様はあき様ですもの。」
「みふゆなら、そう言ってくれると思ってたよ。」

囁くようにそう言いながら、黒いスーツ姿の男は、上から覆い被さるようにして腕を伸ばし、改めてみふゆの身体を抱き締めた。細身ではあるが、無駄を削ぎ落として鍛え上げられた、しなやかな若木のような体躯に顔を埋め、みふゆは万感を思いを込めて、囁くような言葉を返した。
「…お帰りなさいませ、あき様。」
「うん、当面は、土岐とでも名乗っておくか。」
「土岐様?」
「いや、“様”は不味いだろ。」
「では、土岐。」
「そう、その調子だ。しかし、こんなところを誰かに見られでもしたら、大騒ぎだな。」
「言わせておけば良いのです。」
「さすがはみふゆだ。」
「…いつお戻りに?」
「ついさっき、と言いたいところだが、実は少し邸内をうろついていた。適当に痕跡を残してあるから、後で警備体制を締め直してやるといい。」
「承知致しました。」
「それから、これはみふゆにお土産。」

土岐と名乗ることに決めたらしい眼鏡の男は、黒いスーツの腕を手品のように閃かせ、みふゆの目前に小さな指輪を差し出して見せた。プラチナの台に、透き通るように透明な光を放つ石が乗っている。綺麗なカットを施されていたが、ダイヤモンドよりもずっと反射率の低い、宝石というには些かシンプルな石は、宝飾品で着飾ることすら仕事の一部であるみふゆには、余り似付かわしくはない品物に見えた。しかしみふゆは、一瞬の躊躇もなく自分の左手を優雅に差し出して、男の手に委ねた。
「…薬指にはめたくなるじゃないか。」
「土岐なら、喜んで。」
「それも面白そうだな。妹達を呼びつけて、大々的に結婚式でもやらかすか。」

口元には相変わらず柔らかい笑みを浮かべながらも、男の眼に宿る光は、何処か底の見えない冴えた冷たさを隠している。慣れた手付きで、男がみふゆの小指に指輪をはめ終わると、みふゆはゆっくりとその手を取り戻し、目前にかざしてみた。ガラスのような透明な光を透かしてみたみふゆの瞳が、ほんの少し見開かれる。それに気が付かない振りをして、若い男はみふゆの髪に指を滑らせながら、低く囁いた。
「…御守りだ、外さないように。他の者がはめると、危ないかもしれない。」
「……かしこまりました。」
「一応妹達にもあるんだが、もう少し高価そうなものじゃないと、文句を言われそうだからな。」
男はそう言いながら、もう一度深くみふゆの身体を抱き寄せた。そして、みふゆの耳許に唇を近付けると、ほんの微かな声で神託を告げた。
「みふゆ、嵐が来る。」
余りにさり気ないその言葉に、みふゆは身を堅くした。思わず、土岐の背に回した腕に、無意識のまま力が込められる。
「……はい、規模は?」
「全部だ、全部の世界を巻き込むことになるだろう。」

予想もしなかったその言葉に、今度こそみふゆは息を飲んで硬直した。そのみふゆの身体をそっと自分から引き離して、土岐はみふゆの表情を覗き込んだ。
「青ざめた顔も飛び切り綺麗だな。役得だ。」
「……土岐、あの…。」
「側にはいてやれない。みふゆ、一族の手綱を引き締めろ。一人でも多く生き延びなくてはならない。」
「…はい、承知致しました。」
「……私はもう行かなければ。」
みふゆがその言葉にもう一度息を飲むよりも前に、大きく屈み込んだ土岐の腕がみふゆの身体を包んだかと思うと、彼女を抱き締めたままふわりと浮かび上がらせた。そのまま、遠い昔にそうしたようにくるくると回ってから、土岐はみふゆの身体をそっと床へと戻した。
「…でも、いつもお前達のことを思っている。それだけは忘れるな。」

微かな囁きだけをみふゆの耳に残して、黒いスーツの男はひらりと身を翻した。そして、キャンドルの灯りが照らし出すよりも外側の闇に紛れ込むと、まるでその闇が別の深淵へと落ち込んでいるとでもいうかのように、音も無く姿を消した。みふゆがその場に立ち尽くしていたのは、ほんの一瞬のことだった。みふゆは、静かに呼吸を整えると、次の瞬間には自らもキャンドルの光を離れて、勝手知ったる自室の闇の中へと少しの恐れ気も無く足を進め、邸内へのインターホンのスイッチを入れた。
「こちらCB、邸内の全員に告ぐ。侵入者が発生、直ちに第一級戦闘態勢を発令して追跡を開始せよ。繰り返す、侵入者をこの屋敷から逃がすな。」

 

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