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2012年11月 6日 (火)

しゃんばら

波だけど、波じゃない。

七つの世界と言われると、同じような七つが並んでいる姿を、反射的に連想してしまうけれども。ユーリモデルは世界間の時差という可能性伝達のパラメータに焦点を絞って構築されたものであり、個々の世界内部における物理法則の特質や、その互いの関係性を反映してはいない。例えば、集合的なモデルを考えたなら、第三世界は七つの世界の大半を内包する可能性が高い、だから中央世界なんじゃないのか。

第二世界の基幹技術は、歌だと言われている。歌、という現象ひとつとっても、その物理的側面は幾つも切り出せる。歌が言葉なのか音なのかは、歌い手にとっては根源的な大問題だ。どちらかに偏ってしまう技術論は、たくさんある訳だけれども、私は、その両者が並び立つということの意味を、いつも考えていた。技術に偏向したくなるのは、詰まるところ、技術だったら伝達が可能ということと同義なんだけれども。どちらかというと、伝達しようとして形を限定していく結果として、偏向するんじゃないかと思っていた。だから私にとって、学問領域を切り分けるというようなことは、偏向することと、同義なんだよね。

伝達しやすいために、分割するのはひとつの方法だけど。全体を記述するのは、全体だけだ。もしも部分をもって全体が伝達される現象が存在するのなら、それは既に情報が構築されていたところに、その連結を促す鍵が届いた時でしかない。でも、光を「見る」ということが出来ない人に、感覚論を伝えるのは、とても難しいな。それが、元々視力のない人なのか、生まれてからずっと目隠しされていた人なのかは、分からないけれども。そうしたら、やはりいくつかに分割して順番に納得させて、それを再構築するところまで企むしかないのだとは思う。

音は波であると、物理的には当たり前のように言われるけど。人間の耳が聞いている聴覚は、既に波ではなくて、音の高低などのセンサーによって変換されてしまった後の情報でしかない。でも、私達は音波と言われて、本能的に別の納得をする。本当は同じものじゃないんだけど、メロディの波、ビブラート、そういうものは本質的に波の形として相似形をしているからじゃないのかな。色に変換したりするのは、またちょっと別の学習回路によるものだろう。同じように、私にとって、高音は熱量が高い、それはイコールだ。発声においても、ピアノの打鍵においても、ギターの弦をピッキングしても、高い音を出すということは、絶対的に技術とか努力とかを要求する。具体的には足を踏ん張って大きく息を吸って意識を集中して、みんなワンセットだ。教えるのには、確かに分解したりもするけど。再構築を考えなかったら、教えるという目的は達成されない。

寄せては返す音に、途切れない心音に、その反復にぬくもりを感じ取ること、回転体が音を発すること、やかんの笛がぴーとなること、同じじゃないかもしれないけど、とても良く似ている。何が同じで、何が違うのか、違ってがっかりじゃなくて、その相似と相違を確かめるということ。情報伝達と、認識も似ているようで、やっぱり違う。同じ言葉を受け取っても、受け手が変われば、意味は変わる、そうやって万物は揺れ動いている。でもそうやって、両方の可能性を諦めらめられないままでは、先へ進めないな。両方を手に入れようとするのなら、必要なのは、正しい順番だ。

第七が全部を巻き戻し可能なのだとしても、そのためには、全ての因果律を記憶しておくことが必要になる。そんなキャパシティ、無尽蔵の記憶領域を持つとしたら。それは在り得ない内円の中にしか存在し得ないんじゃないのかな。式神世界が、第六でありながら、第一の息吹を色濃く残す世界ならば。在り得ない内円も、実在として、顕現するのだろう。星の内に巣食う伝説の闇として。

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