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2014年5月26日 (月)

ポイニクスの到達

 

***   瑠璃光の萌し 3   ***

 

火星では最も標準的な生活環境である水打ち上げ型都市船は、文字通り人間よりも水が優先される構造として設計されている。ネットレースが完全管理する自動運転の公共タクシーから、循環する空気にまで大量の湿度を含んで、独特の匂いがする風の中へと降り立ったスイトピーは、思わずほっと息を緩めていた。どうにかして彼女を引き留めようとする人々の企みを、素っ気なく断って、早々に公共交通機関へと逃げ込んだのは正解だったようだ。さもなければ、ごてごてと大仰な地球産車種の自家用車で送りつけられた挙げ句、車から降りるのにも一苦労するような羽目に陥っていたに違いない。

お陰でというべきか、夜明けの船の出港予定までにはまだ幾らかの余裕があって、スイトピーはゆったりとした優雅な足取りで、都市船の出入船管理区域へと歩き出した。居住空間だけを見ていたら、地球の大都市にも引けを取らないであろう火星都市船の風景は、しかし、この「港」へ足を踏み入れると、少しずつ異なる雰囲気を醸し出すようになる。都市という名称で呼ばれてはいても、火星の海に沈む各都市船はそれぞれに独立した法や政治体制を持ち、実質国家と呼ばれても遜色ない独自性を保っていて、入船客を出迎えるこのロビー・スペースまでは、都市船ごとに工夫を凝らした特色あるデザインに飾り立てられているのだが。それを抜けると、どんな都市船でも似たような実用性優先の構造が目立つようになってくるのだ。

身分照合や持ち込み品のチェックを行うという警備上の理由で、死角を減らしているというだけではない。小柄なスイトピーから見上げれば、無駄とも思えるような高い天井を確保した空間には、頑丈さだけが取り柄の簡素な建材が、そこかしこで剥き出しになり、存在感を主張する割合が急激に増してくる。火星の海の底という密閉空間の印象を廃することは、都市船内のエクステリアデザインにおける重要な使命だったが、都市船の命綱である気密性を守る頑強さと秤に掛けたなら、二の次と言わざるを得ないことは間違いない。上辺を飾っていられるのも、余裕のある間だけということだ。スイトピーは、その人形のような容姿にはまるで不似合いな厳しい表情で、強い光を瞳に瞬かせた。マワスプという過去の栄光に閉じ籠もり、新しい時代へと突入してゆく火星の激変を、未だに直視すら出来ずにいる白い人々の姿と、良く似ているような気がしたのである。自分達にした仕打ちなど綺麗に忘れ去って、何事も無かったように過去に戻れると思っている、彼らのあの上辺だけの愛想笑いと。

「……シンフォリカルプスの姫君でいらっしゃいますか?」
半ば物思いに沈みつつも、軽やかな足取りを乱さずに進んでいたスイトピーは、背後からのそんな呼び掛けを耳にして、はっと我に返った。全くの不意打ちで声を掛けられ、反射的に反応したにも関わらず、背後へとおもむろに振り返るその短い間に、スイトピーは不機嫌な表情を完璧に覆い隠し、穏やかなよそゆきの微笑を装着していた。生まれ落ちた瞬間から、社交術と呼ばれる戦闘技術が要求される世界で生きてきた彼女にとって、この程度のことは、呼吸をするよりも簡単なごく基礎的な技能でしかなかった。すっかりトレードマークになっているのをいいことに、頑なに身に付け続けている白いドレスの裾を、ふわりと広げながら、どんな角度からも絵になる優美な動作で振り返って、スイトピーは油断無く視線を走らせた。

その視界に、黒いスーツの男が捕らえられる。周囲の人影までの距離からして、声を掛けたのはこの男に間違い無いのだろうが、スイトピーはその姿に目を向けながらも、さり気なく周囲へと注意を投げ掛けた。戦争が終結して以降、都市船間の人や物資の往来は増加の一途を辿っていたが、夜明けの船が入れるような大規模ドックは、戦艦レベルの巨大なシールドシップにほぼ占有されているため、一般的な観光客などたくさん乗客が利用するという訳では無い。疎らに行き交う人々の中で、ぽつりと浮き上がるように立ち止まった細身の姿は、警戒する彼女が自分を見咎めたの確かめ、まるで宥めるようなタイミングで間を置いてから、緩やかに会釈をして見せた。それから、あくまでも滑らかな音の無い動きで、ゆったりと歩み寄ってくる。癖の無い黒い髪をした、若い男である。一般的な距離感からはやや遠い、つまりは、目上の者に対して礼を尽くすと表明しているような位置で立ち止まったその男は、整った顔立ちに模範的な笑みを浮かべ、改めて頭を下げた。

「不躾に大変失礼致しました。お初にお目にかかります。私は、土岐と申します。」
誰何の言葉で反撃を開始しようとしていたスイトピーは、絶妙のタイミングでやんわりと機先を制されて、珍しくもぐっと言葉を飲み込んだ。紛れもなく、単純な礼儀作法というよりも、上流階級の人種との応対に場慣れている態度である。特に彼女のような少女に対して、子供扱いではなく、完全な賓客としてもてなすことが出来る人材は、その道のプロの中でも数少ないことをスイトピーは知り尽くしていた。かなり辛口な彼女の評価基準においても、申し分のない態度ではあったが、残念ながら警戒度は跳ね上げざるを得なかった。こんな場所で通りすがりに、彼女の顔を知っているこんな人間が声を掛けてくる偶然などある筈がない。要するに、待ち伏せされたのだろう。

スイトピーは、これもまた慰留工作の一環と即座に判断して、折角貼り付けた可憐な微笑を放棄し、これ見よがしに口元をへの字に曲げた不機嫌な表情を晒して、つんと細いあごを反らせた。このレベルで要人対処に長けたスタッフなら、この態度が通じない訳はないだろう。予想通りというべきか、目前の男は、その年齢としては見事な程の対応として、即座に視線を下げ、非の打ち所がない慇懃さで一礼してみせた。
「…確かに、わたくしはスイトピー・アキメネス・シンフォリカルプスですけど。何か、ご用かしら。」
「誠に申し訳ございません、お急ぎだったでしょうか?」
「ええ、まあ、そうね。出港まであまり時間がありませんの。」

という言い訳で、しつこい誘いを振り切ってきたのである。この言葉でもさらに引き留めようとするのなら、そのまま無視して通り過ぎてしまうつもりだった。背中を向けることに多少の躊躇があったものの、如何に乗降客は少ないとは言え、監視カメラから警備人員に至るまで、都市船内で最も厳重に監視されているこのエリア内では、そう手荒な真似には出ないだろうと踏んだのだ。が、細身の男は全く動じることなく、再び柔らかな笑みを端整な口元に浮かび上がらせた。予想外のその反応に驚いたスイトピーに向かって、男はさらに、耳を疑うような言葉を継いだ。

「そうですか、お急ぎであれば、こちらも都合がいい。」
「……は?」
「実は重ねて申し訳ありませんが、貴女自身に用があるという訳じゃないのです。」
「…何がおっしゃりたいのか良く分かりませんわ。」
「貴女が夜明けの船にお戻りになるのなら、お願いしたいことがありまして、スイトピー様。」
予想外にも程がある男の台詞に、さすがのスイトピーでさえも、呆気にとられて絶句した。美しい瞳を丸々と見開いて、年齢相応の驚きの表情で固まった彼女に向かって、土岐と名乗ったその男は、如何にも楽しそうに笑みを深めてから、さらりと言葉を続けた。
「火星の勝利をもぎ取った火星独立軍唯一の戦艦、夜明けの船には、はるか・ユール・ヴェーダという女性が乗船していると思うのですが。」

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