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2014年10月12日 (日)

そふぃあ

宗教というのは
その時代その地域における
生活の知恵の集合体なのかなと思う
ある血縁集団が生き残るに際しての
伝統的知識の伝承というのは
みなで生存し続けるための
モラルという砦を守る上で
必須の課題だからだ
生き残るための秩序
その番人としての「神」
だから
概念の擬人化としての多神教とは違って
他を排斥すると同時に
布教を義務とする
それが一神教の神に課せられた
責務なのか、とか

実は
礼拝があって
原語の英語教材を教えるような
幼稚園に通っていたので
宗教関連の最初の学習は
プロテスタント系ということになる
クリスマスはちゃんと
厩と飼い葉桶で三人の博士やお告げの天使
とはいえ
理由としては一番近かったというだけだし
子供に取っては
肝油ドロップがもらえて
綺麗なカードを集めた
印象なんてその程度でしかないんだが
……卒園してないし

祈りの場を整え
規範を伝え
言葉を訳し
献身を示した
布教という意味でなら
むしろ正しい形を為している
だが
広く
薄く
大きく形を変えながら
イメージという形で浸透し
既存の価値観と融合しながら
深く根を張って
知名度という意味では歴然たる違いがある
その分水嶺が何処にあったのか
現状から逆算することは可能だけど
相互理解という意味での
原初の目的の達成が
本当にその差によって為されたのかは
定かではない
もちろん
小さな齟齬はたくさん残されていて
そこんとこ放置してしまうのが
日本という曖昧さの
良いところで悪いところなのだが

想いを伝えるとは
何だろう
勇気を「貰う」という言葉が嫌いなのは
じゃあ上げる側からは減るのかとか
お金のやり取りみたいに言わないでよと
そういう捻くれたことを考えるからなのだが
それは
自分の内から湧き上がるちからだ
与えられる餌を待って鳴いている
雛鳥のような真似は
止めたいんだと
ただそれだけの矜恃だ
でもその小さな灯りと共に
闇の道を往くことも出来る
世界は
昏い
誰も助けてくれないことも
何ひとつ手に入らないことも
事実でしかないかもしれない
それでも
かつて同じように
悩んで苦しんだ誰かの
小さな灯りを見出すこともある
想いを伝えるとは
何だろう
彼の人が
私に残してくれた
この小さな灯を
私にも灯すことが出来るのなら
ひとつが
ふたつになる
ただそれだけのかけがえのない奇跡
では
私の灯りを
誰かに
届けられるのならと

ま、確かに作品というのは
それを伝達するための重要なメソッドだ
でも
このカプセルが故に
簡単に形だけに陥って
誤謬の元となることも事実
たくさんの宗教が
形を造るなと戒めることにも
ちゃんと意味がある
誤解を生まない努力もせずに
伝わらないと嘆くのも違うよねと
独り
誰かが残らなくてはならず
灯を渡し損ねたのであれば
誰かが
運ばなくては

それ故の
メッセンジャーだろう

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