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2017年8月27日 (日)

ほのあかり

 

***   転輪の女神   ***

 

闇の中で。花の開く音がする。

掌を打ち合わせるような軽やかな音が、闇に響く。深い静寂を潜り抜け、暁に花開くその音を聞いて、舞い手は唇を綻ばせた。時の無い闇の泥土の彼方から。朝が、帰ってくる。

優しく開いたその唇を呼吸の型に定めて、舞い手は大きく息を吐いた。小さな風が世界にさざ波を呼び覚ます。その揺らめきの他に、世界にはまだ、何も無い。優しい笑みの気配と、そして吐息の震えるような波だけが、ただ闇の満ちた世界を伝っていく。いや。

そのさざ波の伝わる刹那にだけ、世界が在る。

次の瞬間、舞い手はその胸に息を満たした。闇を揺するさざ波をもって、地を踏む素足と、枝を携えた腕とを、世界に描き出す。全ては瞬間に廻り始めた。軽やかな足音を受け止める大地と、それを覆う冷たい緑、風をはらむ衣、枝に綻ぶ花の香とが、闇を滲ませて浮かび上がり渦巻く風を描き出す。その風は瞬く間に世界を駆け抜けた。ひんやりと冴えた風の響きに揺り動かされて、世界の夜とその静けさとが帰ってくる。

舞い手は更に足を早めながら、眼差しも鋭く天を振り仰いだ。刃のような視線を向けられたが故に、夜明けの迫る東雲の空は、躊躇いがちな淡い光をその瞳に映す。舞い手はもうー度固い息を吐いた。

目を覚ました世界には、既に、もうひとつの足音が満ちていた。

遥か世界の全部よりも更に遠いところ、広大無辺の沈黙の汀において。ひたひたと、誰にも聞こえることのないのに一度も途切れることのない足音は、ずっと続いていたのだ。世界が沈黙に沈む時、その足音は始めて姿を現す。世界が絶望に凍り付き停止するその刹那、最も微かなその足音は、ようやく姿を取り戻す。流転の女神の、祈りの歩み。

巨大な女神はそのー歩を、気の遠くなるような緩やかさで、何処かの世界に刻んでいた。まるで自らの一歩が、か弱い小さな者達を害するのを恐れてでもいるかのように、女神の歩みは密やかに驚く程の細やかさで続いている。だがその努力も虚しく、ほんの一歩のその響きが、目覚めたばかりのこの世界を外側から揺さぶっていた。彼方の一歩が響くたび、世界は恐れ戦くかのように律動し、風の震えは静まることなく降り積もっていくのだ。揺り動かされる世界は安定を取り戻すよりも前に次の震えを受けて、一層大きく身を震わせて次第にその振幅を大きく、そして無秩序に募らせていく。

朝の訪れを追い越してなお速く、急速に世界は明るさを増していった。夜明けを呼ぶ涼やかな花の香りが、熱に浮かされて濃く甘く匂う。舞い手は、軽やかに地を蹴った。しなやかな身体を空に閃かせ、伸ばした白い腕を翼のように閃かせてくるくると輪を描く。その軌跡に巻き込まれた風の熱は、凝るように細い身にまとわりついた。奇妙な密度を抱くその熱は、舞い手の手足を核に淵へと下り落ちる流れのように集まってくる。風に巻かれた長い滞空の後に、舞い手は勢い良くその足を大地へと打ち付けた。張り詰めた鼓を打つような凛とした音が響くと、凝った熱はその一歩を通して大地へと雪崩れ込んだ。

一群れの熱い風が大地の内を駆け抜けていく。遙かな女神の揺り起こした熱が、閉ざされた大地の眠りを妨げて声なき声を上げる。微睡む夢にたゆたう何かが、その響きに呼応して揺らめいた。古き古き何ものか、幾千幾億の夜の向こうに忘れられた灼熱の夢に滾る獰猛な、何か。

世界の外側で響く女神の足音が、またひとつ大地を揺さぶった。遙かな回廊を駆けて近付いてくる灼熱の獣の咆吼が、その後を追って静止の眠りに牙を剥く。大地が陽炎のようにゆらゆらと震えると、その表に刻まれた膨大な何かが仄かな光を放ち蠢き始めた。長い、長い、長い、約束の文のその文字が、眠りから目覚めて息を吹き返し揺れている。舞い手は、跳ぶように軽い次の一歩を、その面に刻み付けた。連なる文字は己の光を取り戻し、金色に瞬きながら走り始めた。

いつしかそれは、大地の内に身をよじる長大な何者かにまとわりついて形を描き、その身を飾る無数の羽毛と化して揺れ始めていた。遠き女神の足音が響き、凝る熱が大地の内に潜んでいた太古の夢と共鳴して身を震わせる。地の母が大地であるよりもずっと昔、誰にも数えることが出来ない程に遠い時の向こう、深淵の星の海に浮かぶ灼熱の炎の塊であったころの、夢の翼。

地の眠りに封じられていた炎の鳥はその翼をもたげ、大地であったものはその瞬間に波打って業火の風に飲み込まれた。空からでは無く大地の底から膨れあがる炎の朝、吾と吾が身を燃やして甦る炎の翼の紅蓮の鳥が、その羽ばたきにより世界を灼熱へと引きずり込んだのだ。舞い手は、その唇に笑みを刻み込みながら、その同じ炎の中へと己の舞を解き放った。形の無い想いの舞い、狂乱の灼熱に負けない漆黒の闇の魂が渦を巻き、大地の鳥と共に炎の風に姿を変え、舞い上がる。

炎の鳥は膨大な熱を呼び覚まして膨れあがり、目覚めた世界の全てを瞬間で飲み込んだ。満ちていた熱の風を、朝を告げる花の幻をも飲み込んだ。その向こうに連なる遠い静寂を、何処でも無い何処かの回廊を、駆けてくる虹色の風と呪われた獣とを諸共に飲み込んだ。何もかもが、炎の夢の中を踊り狂う。灼熱の炎の渦に巻き込まれ、全てが、解き放たれる。祈りの想いと、遠き約束と、遠大な絶望を踏み越えた小さな勇気、猛り狂う怒りとが、炎の中でひとつになる。その炎獄の渦を抱いた灼熱の鳥は、無窮の闇を退けてなお羽ばたいた。遠い女神の歩みに応え、形無き全てを孕んで舞うこの炎の翼こそが、新しい一歩を産み落とすだろう。世界の全てを覆す転輪の標の導くままに。

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