閑話休題
えー、すいません。ドラマCDを聴いたら、どーしてもこのネタだけ消化したくて我慢ならなくなってしまいました。その割に、苦労したりして。
眼下には黒々と夜の海が横たわっている。切れるように冷たい夜気に身をさらしたまま、ヤガミはトップデッキに佇んでいた。せっかくの浮上ではあるが、こんな深夜に暗闇の中を歩き回る物好きが、他にいる訳もない。落下防止の目印のため、デッキのへりに綺麗に並んだライトさえ避けて、ヤガミはたった独りで闇にまぎれていた。
夜の海からは、火星という戦いの星に囚われたものたちの声が立ち昇って来るかのようだ。無数の、声。望みと、悲しみと、祈りと、痛みと、そして。怒りと憎しみの声。
それを肯定することも否定することもなく、ヤガミは立ち尽くしていた。もしそれが、自分が血まみれになってでも何かを手に入れようとする、そのために踏み潰されたもの達の声ならば。彼らには、その声を上げる権利があるのだろう。
その時、背後でハッチの開く重い機械音が響くのを聞いて、ヤガミは眉をひそめた。誰が来たのかを確認するまでもなく、こんなタイミングで現れるのは、彼女しかいない。独りになりたい時を狙いすましたようにやってくるのだ。そして案の定、聞き慣れた軽い足音が、近付いてきた。もう一人の、異邦人。
闇に沈んだヤガミとは対照的に、はるかは仄かなライトの上で立ち止まった。ぼんやりと、まるで幻のように、夜の闇にその姿が浮かび上がる。
「寒くないの、ヤガミ。」
「何しに来た。」
「あら、ご機嫌斜めだ。用事はちゃんとあるのよ。」
はるかは後ろ手に持っていたガラス瓶をヤガミに差し出した。見慣れない洒落たデザインだが、アルコール飲料の瓶らしい。
「これは?」
「吟醸酒。前に都市船で約束したでしょ。」
「……ずいぶんと昔の話だな。」
「あはは、えーと、この間海に落っことしたお詫びもね。いいじゃん、そんなこと。」
「まあ、貰っておくが。」
「難しい顔してるのに飽きたら、飲んでみてよ。美味しかったのよ、これ。」
はるかが瓶を手渡そうと身動きすると、その姿が闇に沈み込んだ。たったそれだけのことでヤガミは一瞬動揺し、そんな自分にさら狼狽えた。吟醸酒の瓶をヤガミの手の中に押し込んで、はるかの姿がもう一度闇の中から現れると、ヤガミは少なからずほっとしたのだが、その気持ちの動きを誤魔化そうと慌てて次の言葉を探し出す。
「あー、そういえばお前が酒を飲んでるところは、見たことがない気がするんだが。」
「うん、まあ、あんまり得意じゃないけど。」
「……下戸に美味い酒と言われてもな。」
苦手なアルコールをちびちびと味見しているはるかの姿が眼に浮かんで、ヤガミは少し口元を緩めた。それを見たはるかの頬に、珍しくぱっと朱の色が散って、ヤガミは思わず目を見開いた。はるかが唇をとがらせる。
「もー、相変わらず酒と食べ物にはうるさいし。そんなだから、タキガワに酒癖悪いとか言われるのよ。またくどくどお説教でもしたんでしょ。」
「そういうお前はどうなんだ、暴れたりするんじゃないのか。」
「直ぐそういうことを言う。あのねー、ひとつだけ言っておきたいんだけど。」
「なんだ。」
「私にはヤガミが背負っているものの重さは、よく解らないけど。」
軽い口調のまま言い返されて、ヤガミは文字通り息を止めた。
「前にも、言ったよね。貴方に出来ないんだったら、他の誰にも出来やしない。だからこれは陣中見舞なの。」
凍りついたままのヤガミに向かって、はるかは真っ直ぐに人差し指を向け、その右手で銃を形作った。ゆっくりと、舞のように滑らかで美しい軌跡を描いて、左手が添えられた、その瞬間だった。
はるかの背後から、一陣の風が吹き抜けた。ライトに照らされて淡く光るはるかの眼が、ほんの刹那ヤガミの眼を覗き込んだ。そして、かき消すように闇にまぎれる。
「じゃあね、ヤガミ。」
闇の中から声だけが響いた。そして軽い足音が、遠ざかって行く。その足音に耳を澄ませながら、ふと気が付いて、ヤガミは夜の海を振り返った。もう、波間から声は聞こえない。
ヤガミは微かな笑みをその唇に浮かべた。
「……祝杯まで、取って置くか?」
手の中の、託されたものの重みを確かめながら。ヤガミは夜の海に背を向け、ゆっくりと歩き始めた。
| 固定リンク

コメント