« れぽーと9 | トップページ | 隠の系譜 »

2008年3月24日 (月)

桜始開

 

 

***  魂のうつろ   ***

 

警告を繰り返すBALLSを無視し、飛ばせる限りのスピードを要求して都市船を駆け抜けると、ヤガミはそのまま可能なぎりぎりの区画まで強引に車を公園へと乗り込ませた。その挙げ句、乗り捨てるようにして車を飛び出し、暗い夜の空間を走り始める。

樹の下と言われれば、思い当たる場所はひとつしかない。というよりも、夜明けの船以外の場所での想い出など、どちらにせよ数える程に満たないのだ。彼女がただ日常傍らにいることが、あまりにも当たり前で、それがどんな価値を持つのか、その日常を守るためにはるかがどんな犠牲を払っているのか、何もかも知りながらどんな気持ちで笑顔を見せ続けたのか、その痛みにさえ、気が付くことも出来なかった。

その己の不明は、まるでこの夜の公園の風景のようだと、そんな思いがヤガミの脳裏を過ぎった。全く同じ場所である筈なのに、光があるか無いかで、その姿も意味もまるで違ったものになってしまう。同じ距離を走っても、気持ちが動揺している、ただそれだけの違いで、その距離を越えることが何倍にも困難に感じられる、人の心の不思議。

だが、ぽつぽつと灯された照明を残して、真っ暗に染め上げられた夜の空間に目が馴染んでくると、それが思ったよりも暗くは無いのだと、始めて気が付く。走る自分の足元に、薄い影が映っているのだ。その時になってやっと、ヤガミは自分の頭上に、ほんのりと欠けた円い月が浮かんでいることに気が付いた。
海中の都市船という造りものの大地に、既に地球本土ですらお目にかかることの出来ない、太古の姿をしたまがいものの月が浮かんでいる。そのほん一部だけ縁のぼやけた姿が、何百年かぶりに思い出した十六夜という言葉と結び付いた。満月よりも少し遅れて躊躇うように昇る、その憂いを意味する名前の月が、低い位置から斜めに、心を覗き込むような光を投げ掛けている。

場所はおそらく間違いないにしても、メッセージに時間についての言葉は何も無かった。だから今、こんなにも自分の気持ちが急いているということに、根拠がある訳ではない。にもかかわらず、今間に合わなければ取り返しの付かないことになるのだという動かし難い危機感が、ヤガミの思考を占拠していた。
確かな言葉で表現出来る証拠など、何も無い。だが、いつもはるかが、そんな風に確たる形の無い風の動きから、未来を読み解いてきたように。何かが、自分の胸の中で鳴り響いていた。忙しなく呼吸するその乱れた息のさらに奥、彼女を見失って、ぽかりと穴が空いたように虚ろな自分の心の内側に、その暗闇を満たすように鳴り響く音の無い音があるのだ。

絶望と戦う者が夜明けを呼ぶ騒々しい足音ならば。彼らよりさらに前に、英雄たちの足音を導く、静かな祈りの謡が在る。

月明かりの中を駆け抜けて、街灯さえ置かれていない暗い林を抜けると、明るい昼とはまるで違う存在感の持ってそびえ立つ一本の樹の姿が見えてきた。以前はるかが寝そべっていたあたりに必死に目を凝らすが、それらしき影は見当たらない。
あの時よりもさらに遠いような気がする黒い丘を駆け上がり、それでもその根元に誰も見当たらないことを確認して、ヤガミは緊張のあまり、ごくりと乾いた唾を飲み込んだ。焦って働かない頭を叱咤しながらも、ぐるりと幹の周囲を確認するという間の抜けた行動しか思いつかず、鼻が効かなくなった狼のように、うろうろと意味も無く足を動かす。

急がなければ、その確信は動かしようもなかった。ランデブーポイントを逃せば、運命がどんな残酷な結末を用意するのか、それを何度となくヤガミは思い知らされてきたのだ。誰も気が付かないような、ほんの些細な選択の一瞬が、未来の姿を決定するのだということを。
あの時はるかがいた場所に戻り、早鐘のような自分の鼓動と、それに合わせて衝動的に動きたがる身体を無理矢理押さえ込むように、ヤガミはじっと脚を踏み締めて立ち尽くした。

あの時、はるかと一体何を話したろう。彼女はこの樹を、仲直りの樹と、そして約束のしるしの樹だと言った。誰かを抱き締めようとするかのように、優しく差し伸べられた腕、どうしてそれが自分に向けられないのだろうか、自分がそんなことを考えたのだと、ヤガミはぼんやりと思い出した。夢見るような横顔、漂う甘い花の香り。あの時置いて行ったキャンドルは既に片付けられたのか無くなっていたが、はるかはそれを、目印だと言った。揺らいで移ろう儚さを持ちながら、だが満ちてくる夕闇に逆らって密やかな淡い光を放つ、彼女の想いのような小さな明かりがそこに、ぽつりと灯る瞬間を、ヤガミは見たような気がした。

その時、胸の虚ろに満ちた青い音が、一際大きく鳴り響いた。まるでその音に答えるかのように、頭上の枝が突然ざわめきを返す。反射的に上を振り仰いだヤガミの視界に、枝から垂れ下がった白い手が飛び込んできた。天へと腕を広げたその枝に、人間の影らしきものが身を任せているのだ。それにヤガミが気が付いた瞬間、枝からこぼれたその白い手に引かれるように、人影はずるりと滑り落ちた。

それがはるかなのかどうか、しかももし機械義体であったならなどということを、考えている余裕も無かった。手の位置を頼りに頭部の見当を付け、それを抱え込むように腕を伸ばしながら、落下の勢いを相殺できそうな方向へと身体を滑り込ませる。柔らかい髪の感触が顔の上を滑り、温かい重みがヤガミの身体の上にのし掛かった。仰向けに身を投げ出した自分をクッションにした形でその身体を受け止め、倒れ込んだ反動で転がらないよう力一杯抱き締める。万が一それがフルサイボーグの身体であったなら、下敷きになったヤガミはただでは済まなかっただろう。だが、落下の勢いが止まるのを待ってやっと息を吐き出したヤガミは、自分の抱いているのが、紛れもなく生身の女性の身体であることに気が付いて、もう一度息を飲んだ。

うまく胸の上へとかばった頭にそっと手を伸ばし、その髪の感触に覚えがあることを確かめる。それからゆるゆると細い肩から背中へと感触を確かめながら手を滑らせ、予想よりもずっと軽いその身体に戸惑っていたヤガミは、ふと自分の視界に幻のように広がる青く揺らめく何かに気が付いてぎょっとした。それは、抱き締めたその身体の背から、まるで風を受けた薄衣のように、空へ向かって広がっていた。それが本当に自分の眼に見えているものなのか、それとも錯覚でしかないのかの判別が付かないような、薄く青く光る透明な何か。ヤガミは衝動的に、その青い羽を広げて彼女が飛び立つのを阻止するかのように、ぐるりと転がってその身体に覆い被さった。

夜の闇に慣れた眼には充分に明るい月の明かりが、横たわるヤガミと彼女の影を緑の上に描いている。ちょうど自分の首筋にあたるその微かな吐息を確認して、ヤガミは慎重に身を起こし、月の光を導いた。まるで力無く、されるがままになっているその顔が、ぼんやりと月明かりに照らし出される。それが間違いなくはるかの顔であることを確認し、それでもまだ足りないとでもいうかのように、ヤガミはそっとその顔を指でなぞって、柔らかく滑らかな感触を確かめた。自分の身体の下に巻き込んだその胸元が、静かに緩やかに呼吸しているのを味わうように、抱き締めたままの腕に力を込める。
それからヤガミは、その耳元にそっと唇を寄せ、静かな静かな声でささやいた。
「…はるか・ユール・ヴェーダ。目を醒ませ、俺の魔女……。」

閉ざされたまぶたが微かに動き、花がほころぶように薄くその瞳が開かれる。唇が僅かに震えるのを見届けてから、ヤガミはゆっくりと口づけを落とした。腕の中の身体が身じろぎし、徐々に動きが戻ってくるのを確かめるように、幾度もその唇を味わい続ける。やがてその手が微かな力を取り戻し、弱々しい抗議のように肩を押し返すまで、それは繰り返された。
「…やっと、目が覚めたか。」
「……この、身体…うまく、動かな…。」
「まだシンクロが完全じゃないんだろう。無理をするな。」

それからヤガミは、細心の注意を払ってはるかの上半身を抱き起こすと、未だ力の戻らないその身をしっかりと腕に抱いて、自分にもたれかけさせて座らせた。はるかが大人しく自分に身を任せているのに満足し、まるで子供をあやすように、その髪にそっと指を滑らせ続ける。だがやがて、まるで素直なはるかでは物足りないとでもいうかのように、口元に笑みを浮かべると、ヤガミは低い声で話し始めた。
「…悪いことをするなら、今のうちだな。」
「え、ちょっ…」
「俺が名前を付けたんだから、俺のものだ。」
「な、何よ…言いたいこと、言って……」
「…安心しろ。俺は優しいから、命令はひとつきりだ。」
ままならない手足を何とか動かして身を離そうとするはるかの身体を、ヤガミは再び抱き締めた。
「……傍に、いるんだ。俺の傍に……。」

はるかが息を飲んでいるのが、抱き締めた腕に伝わってくる。ヤガミは腕の力を緩めてはるかの顔を覗き込み、丸く見開かれた瞳を月明かりに確かめると、その瞳を見つめたまま、静かに言葉を続けた。
「……お前の翼をもぎ取るつもりはない。だから、お前が望む限りでいい、傍に……。」
ヤガミの言葉を聞いて、はるかの顔が優しい笑みを形作った。
「……私が、嫌と言ったら、どうするの…?」
「…無理強いは、しない。お前が、望まないなら……。」
「それ、ずるい。私が私の意志で、傍にいるのを望むって、そういうことよね。その方が、我がままじゃないの…。」
「…嫌なのか?」
はるかの腕が、するりとヤガミの首に巻き付いた。未だ自由にならない腕に精一杯の想いを込めるようにして、はるかは小さな声で囁きを返した。
「……しょうがないなあ、もう…。」

改めてはるかの背に廻した腕に力を込めながら、ヤガミは眼下に広がる夜の風景を見ていた。まがいものの黒々とした風景を照らし出す、まがいものの月の光。この嘘の風景を抱いた都市船の周囲には、闇の色をした火星の海が満ち、その上には極寒の嵐が吹き荒れているだろう。だがその世界を、ヤガミは初めて美しいと思った。呪われて血塗られた戦いの星の、まがいものだらけの風景は、それでもなお美しかった。このまがいものの世界に座して、嘘で塗り固めた造りものの腕の中に、仕組まれた運命に導かれて出会いながら、その全てに反逆する紛れもない真実を抱いている奇跡。
名前のない何者かにその奇跡への感謝を祈りながら、ヤガミは誓いの言葉をはるかの耳に囁いた。

 

|

« れぽーと9 | トップページ | 隠の系譜 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 桜始開:

« れぽーと9 | トップページ | 隠の系譜 »