夏の夜の夢
その日、約束の刻限よりもずいぶん早々と仕度を終えてしまったヤガミは、自室にこもったまま苦労しながら時間を潰して過ごしていた。いつもと違う格好をしていると、無闇に夜明けの船の艦内を歩き回ることも出来ない。火星の経済状況データを表示させたりしてはみたものの、上の空で何度も読み飛ばしたりしているようでは、一向に仕事ははかどらなかった。ただでさえ、一度閉塞方向へ転がり始めてしまった経済を、上向きの軌道に乗せるのは容易な仕事ではないのだ。
水資源というたったひとつの産業に依存して、急速に拡大してしまった火星の経済は、その構造のあちこちに弱点を抱え込んでいる。これを地道に是正しながら、安定しつつも長期的に発展可能な経済構造へと舵を切る、それが現在の火星に突き付けられた課題であった。この気の長いプロジェクトを推し進めるのには、火星に住まう誰もがはっきりと認識できるような、共通の旗印を掲げる必要がある、そうヤガミは考えていた。これまでは、戦争こそがその座を占めていたのだ。確かに一時的には、戦争は火星経済を潤した。だがそれが破綻した、もしくは破綻させられた現状には、次の旗が、必要なのだろう。
人の歴史は、そのようにして拡大の歩みを進めてきた。豊かな生活を求めて隣国を侵略し、神を崇めて巨大な神殿を築き、新天地を求めて船出して、そして。真空の海を越えて、この星の世界へとたどり着いた。
今日こそは、はるかが自分からやって来るまで粘るつもりでいたヤガミだったが、そんな取りとめのないことを考えているような状態では、定刻を過ぎてそう我慢が続く筈もなかった。約束の時間を過ぎてからは、ほぼ時計と睨み合っていたヤガミは、とうとう立ち上がると、例によって例のごとく床に八つ当たりの靴音を響かせながら、はるかの部屋を目指して自室を後にした。
はるかの部屋の自動ドアが切られているのを確認して、ヤガミは柄にもなく、やや気持ちが浮かれるような緊張を感じてごくりと唾を飲み込んだ。一応はるかは、支度の最中なのだろう。ヤガミは自分の声が上ずらないよう、無理矢理押し殺した声をインターホンに投げかけた。
「はるか、遅いぞ。」
「んー、今行くー。」
常と変わらないのんびりとしたはるかの返事が聞こえて、逆にヤガミはさらに緊張した。だから、やっと開いたドアを押さえて見えたはるかの腕が、普段と同じ総軍の制服に包まれているように見えて、むっとしたヤガミは思わず声を荒げた。
「おい、まだ着替えて……。」
だがドアの影から姿を現したはるかを確認し、そのままヤガミは絶句して立ち尽くした。ヤガミが勘違いしたとおり、はるかが身に付けていたのは、袖口から上着全体まではお馴染みの制服にそっくりのデザインのドレスだった。だが、軍服ではあり得ないようにその襟は大きく開いて、首筋から胸元まで白い肌がのぞき、ネックレスの深い青の宝石が光っている。シャープなラインのジャケットとは対照的に、ふっくらと広がる同じ濃い青のレースを重ねたスカートを揺らしてはるかが進むのに、ヤガミは無意識に後ずさりするようにして道を開けた。
「ニャンコポンがデザインした夜会服にケチをつけたら、瞬殺されると思うけど。」
「…あ、や、その…。」
ヤガミの脳裏に、これは罠だ、という言葉が点滅した。見慣れている制服と余りによく似たデザインが、かえって日常とは違うその雰囲気を際立たせている。しかも、ひとたびこれを目にしてしまったからには、今度は制服を見るたびに、この衝撃を追体験する羽目になることは明白である。あからさまに顔を引きつらせているヤガミに、さすがに不安になったらしいはるかは、眉をひそめた。
「え、どこかおかしいかな。」
身をひねって自分の身だしなみをチェックし始めたはるかの仕草に、さらにヤガミはうろたえた。有体に言ってしまうと、不覚にも可愛いと思ってしまったのである。頭に血が上って赤面しそうになる自分に悪態をつきながら、何とかはるかの動きを止めさせようと、ヤガミはぐるぐるしながら言葉を探し出した。
「…な、中身が中身だ。その程度だろう。」
「あら、そう。」
はるかはさすがにじと目になって唇を尖らせ、そのままヤガミを残してすたすたと歩き始めた。傍らを通り過ぎたはるかの身体を取り巻くように、甘い花の匂いも通り過ぎる。思わず、その甘さをもっと確かめたくて、反射的に大きく息を吸い込んでしまったヤガミは、一拍遅れてあたふたとはるかの後を追いかけた。
背後から見るそのドレスは、すらりと伸びた背筋と細い腰、それとは対象的にふわりと膨らんで広がる柔らかなスカートのラインと相まって、文句なくはるかのシルエットを引き立たせていた。こんな風に、はるかは真っ直ぐに前へと進み続けるだろう。彼女を導いてここまでつれて来た筈の自分が、いつの間にか、彼女の指差す彼方をこそ目指して歩き始めている、ヤガミは今更ながらその不思議をかみ締めた。そしてヤガミは、彼女の身体が、今までのような戦闘用の機械義体ではないのだということを改めて思い出し、はっと我に返った。そして大慌てて足を速めると、はるかの横に並んで話しかけた。
「…今後はこれまでとは違う。無茶なことをするなよ。」
「ふーんだ。今日は普通に遊びに行くって、言ったくせに。」
「いや、今日は確かにそうなんだが…。」
「まあ、踊りに行くとか言っても、確かに絢爛舞踏には戦闘でも同じよね。せっかくドレス着たんだから、艦内一周して見せびらかして来ようかな。」
「ま、待て、そんなことをしたら、わざわざ夜中に待ち合わせた意味が…。」
「なんだ、やっぱり人目が少ない時間帯を選んだのね? 私はともかく、ヤガミのフォーマルスーツはいいネタになりそうなのに。」
「ちょっと待て、はるか。お前な、少しは自覚というものを…。」
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