癒しの泉
誰が指揮を取ったという訳でもないのに、いつの間にやら夜明けの船では、その全体がRBレースの開催に向けて歩調を整えようとしていた。
パイロットや整備班が、非戦闘目的という、これまでとまるで異なるベクトルの技術集積に目の色を変えているかと思えば、お祭り好きの陸戦隊員達は古今のあらゆる競争競技のルールをかき集め、如何に勝負を面白く演出するかの論議に熱中している。水測と航海士がタッグを組んで、コース設定の難所をわざわざピックアップし始めたかと思えば、医療スタッフまでもが万が一に備えた緊急手当の手順を検討している有り様である。
そのさらに上層の策士たちが、もっと良からぬことを企み始めたのを適当に受け流しながら、ヤガミは最も地道な、RBの基礎データ収集に勤しんでいた。これらの動きの成果が具体的な形を取るようになれば、放っておいても事態は転がり始めることになるだろう。状況が加速すると、こんな初歩的な情報収集は、むしろ難しくなってしまう。だが将来の飛躍の鍵となるような足場固めには、こんな取るに足らないように見える小さな情報の集積が重要なのだと、ヤガミは考えていた。
さすがに他には誰もいなくなった夜間のハンガーで、はるかから得られた運動制御の基礎データを、RB操縦用のBALLSに組み込んでいたヤガミは、扉を開く軽い音を聞いてふと顔を上げた。その視線の先に、はるかとエノラが佇んでいるのが見える。先に立ってヤガミへ向かって歩き出したはるかが、にこりと笑みを作るのを見て、反射的に柔らかい笑顔を返しそうになったヤガミは、その背後に続くエノラから、自分の顔が丸見えなのを意識しながら、苦労して表情を引き締めた。
「ヤガミ、ちょっといいかな。」
「どうした。」
「うん、あのね…。」
はるかが、後ろに続いているエノラを振り返る。そのエノラの顔が、いつになく緊張に強ばっているように見えて、ヤガミは完全に手を止め、改めて二人へと向き直った。
「…エノラが、人形が開発された初期の話を聞きたいんだって。」
「あの、ほんとはおじいちゃんに聞こうかと、思ったんだけど…。」
いつでもはきはきとした口調で、言いたいことをたとえヤガミに向かってでも言い放つエノラが、珍しくも言い澱みながら付け加える。ヤガミは、静かに息を吸い込んだ。最低接触戦争、その時代の話題は確かに、エノラにとって、そしてタフトにとっては、心の痛みを伴わずにはいられないものなのかもしれない。エノラの緊張を思いやるかのように、いつもよりも近い位置にはるかがそっと控えている。逆に第三者の方が話をしやすいのだろうと理解したヤガミは、極めて事務的な口調で返事を返した。
「何が聞きたいんだ。」
「あのね、人形は、スペースデプリを回避しながら、戦線を前進するための、運動能力を目的として人型に造られたのよね。」
「そうだ。宇宙空間に撒き散らされた大量のスペースデプリは、高速で移動する宇宙船にとっては、そこに存在する、それだけで大変な脅威だ。BALLSが展開した宇宙のゴミは、太陽系を守りはしたが、同時にこちらから攻めることも出来なくなった。だが時間を与えれば、科学技術では大きくリードした海軍魔女が、そのゴミを一気に掃除してしまう方法論を生み出してしまう可能性も否定出来ない。苦肉の策として、スペースデプリを、地道にかい潜りながら前進する、そういうゲーム紛いの運動性能が求められた。その答えが、あの形だ。」
「そして、その宇宙空間と同じように水中でも動き回れる、絶対物理防壁システムを手に入れて、そのままの形で火星の海に投入された…。」
「艦船がまずそうやって持ち込まれたからな。もともと、船は海から発達したものだ。その延長として真空の海へと乗り込んで、そして再び海へと還ってきた。」
「…もしも、RBが最初から水中での戦闘を目的として造られたら、人型になってたのかな。」
「確かに、もっと水の抵抗に適応した流線型の設計思想もあるだろうな。だが、何と言っても絶対物理防壁の機構が大前提としてあるからには、多少の水圧抵抗は無視出来る程度に低減出来ると考えれば、攻撃時の運動能力を取るような気はするが。超高速の世界では、攻撃と回避は表裏一体のものだ。」
「…そっか、抵抗を減らせばいいばかりじゃ、ないってことなのね。」
「そのためになら、船の形がある。小型の攻撃用船体を開発するというのは、ひとつの方向かもしれんが。」
「あ、つまり、ポイポイさんみたいな感じね?…うーん、なるほど。やっぱり手足があるっていうメリットも大きいのか…。」
腕を組んで俯いたまま、懸命に頭の中で計算を展開していたらしいエノラは、何かに迷ったかのように、ふわりと視線を辺りに漂わせた。それから、ぐっと意を固めてきっぱりと顔を上げると、真っ直ぐにヤガミの顔を見詰めて再び話し出した。
「あ、あのね、ヤガミ。」
「なんだ?」
「…ヤガミは、最低接触戦争の時の、あの、社会状況とかも、詳しい?」
その声は、ほんの少し震えていた。いつでも明るく前向きなエノラのそんな声は、これまで、ヤガミは聞いたことがなかった。その想いの揺らぎに寄り添おうとするかのように、傍らに立っているはるかはそっと移動すると、エノラの肩に手を伸ばして抱き締めた。
真っ向から自分を見詰めるエノラの表情を見詰め返しながら、ヤガミは思考をフル回転させて返答を吟味した。しかし口から出てきたのは、如何にもありふれた言葉でしかなかった。
「世間一般で知られている程度のことなら、俺でも答えることは出来る。だが、エノラが知りたいことを、答えられるかどうかは分からない。もしもそれを、エノラにとっての真実を知っている人物がいるとすれば、それはタフトだけだ。そうだな。」
ヤガミの返事を聞いて、エノラはくしゃりとその表情を歪めた。それから深々と息を吐き出すと、まるで力が抜けたとでもいうように、肩を抱いているはるかに寄りかかった。そのエノラを受け止めて、はるかがそっとその手に力を込めているのを見ながら、ヤガミはじっとエノラの次の言葉を待っていた。
「……うん、そうだね。おじいちゃんがどう思ってるのかは、私もよく分かってるの。」
「だったら、それで全部だ。それ以外に意味のあることなんて、何もない。それは俺達が保証する。」
ヤガミの言葉を聞いて、その瞳に涙を溜めたままのエノラは、思わず、満面の笑みを浮かべた。
「……変なの、ヤガミったら、ウィッカとおんなじこと言ってるよ…」
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