« 清涼のお松明 | トップページ | 女神の秘蹟 »

2009年3月16日 (月)

阿蘇の御前迎

 

 

***   臥待ちの月   ***

 

膨大な容量を持つMAKIのデータバンクの海で、人体の機械化が始まった黎明期の、埃を被った情報の切れ端に没頭していたヤガミは、ふと我に返ると、こちらも古めかしいタイプの腕時計に、素早く目を走らせた。情報の検索を始めると、時間の感覚が無くなってしまうのが悪い癖だとは自覚していたが、それでも自分では止め難いのが正に悪癖というものである。予想外に遅い時間を確認して慌てたヤガミは、手早く作業の後処理を片付けると、あたふたと飛行長席から立ち上がった。コンソールの傍らにちょこんと置かれていた小さな箱をつまみ上げ、慌ただしく身を翻す。

とっくの昔に深夜の時間帯に突入している夜明けの船の艦内は、既にしんと静まり返っている。人目の無いのをいいことに、ほぼ全速力でその廊下を駆け抜けたヤガミは、大急ぎで自室へと戻ると、その勢いのまま室内に飛び込んだ。ホワイトデーにかこつけて部屋で一杯やろうと、はるかを待たせていたのである。だが約束の時間は、とうの昔に過ぎていた。

「すまん、はるか。ちょっと手間取っ…。」
ドアが開くのももどかしく、声を上げながら部屋を見回したヤガミは、しかしその目に飛び込んで来た予想外の光景に、また慌てて言葉を飲み込んだ。普段は殺風景な室内に、見覚えの無い暖かな色合いのラグが持ち込まれ床に広げられていたのだ。その上には、はるかが都市船へと弁当持参で出掛ける時によく使うバスケットが置かれて、酒のつまみらしき軽食が顔をのぞかせている。だが、ヤガミが驚いたのはそれだけではなかった。

バスケットのその隣に、まるで子供のように手足を丸めたはるかが寝そべっているのだ。待ちくたびれて眠ってしまったらしいはるかの姿を目にして、さすがのヤガミも思わずため息をつきながら頭をかいた。高級品には高級品のお返しとばかり、スイトピーやエノラにこっそりとリサーチして、最近話題らしい花の砂糖菓子を手配したまでは良かったのだが、最後の詰めでとんだ失態である。

ヤガミは覚悟を決め、気配を殺して音を立てないよう細心の注意を払いながらはるかににじり寄ると、その顔をのぞき込んだ。静かな寝息を立てながら眠るはるかの口元が、不機嫌そうに強ばっているように見え、ヤガミはばつの悪さに、ごくりと乾いた唾を飲み込んだ。憎まれ口の叩き合いは日常茶飯事ではあるが、一方的に自分に非がある状況ではるかに文句を言われるというのは、あまり経験したくはない。

さてこの難局をどう乗り切るかと首を捻ったヤガミは、見るとも無しにはるかの顔を眺めて、次の瞬間思わず息を止めて硬直した。閉じられたはるかの瞳から一粒の涙がこぼれ落ちると、ヤガミの見詰めるその目前で、滑らかな白い頬をまるで見せつけるようにゆっくりと伝って流れて行く。固く結ばれていた唇が僅かに動いて、音の無い言葉の気配だけを見せると、頼りなげに開かれたそのままでまた止まった。先程までとは打って変わって、まるで不安な子供のように見えるはるかの表情に、ヤガミは深々とため息をもらした。

「…はるか、おい。」
潔く覚悟を決めると、ヤガミは手を伸ばしてそっとはるかの頬に指を滑らせながら、その耳元に声をかけた。これではるかが目を覚まして文句を並べて噛み付いて来ようとも、このまま夢の中をひとり彷徨わせておくよりは、いくらかマシなような気がしたのだ。はるかはけだるげに身じろぎをすると、んーと呟きながら、辛うじて如何にも眠そうな眼を開いた。のぞき込んだヤガミの顔を視界に捉えても、状況がよく分かっていないような顔で鈍い瞬きを繰り返している。

「…ん…ヤガミ…?」
「…すまん。遅くなった。」
「うーん…」
それでも目が覚めないらしいはるかは、開き切らない重い眼差しでヤガミの顔を眺めながら、もう一度問いを繰り返した。
「…ヤガミ?」
「ああ、ここにいる。」
低く抑えたヤガミの声を聞いたはるかの顔が、ぼんやりと眠そうなまま、柔らかに微睡んだ微かな笑みを浮かべた。驚いて眼を見張ったヤガミの前で、はるかはまだ眠そうな瞬きを続けながら、ぼそぼそと呟いた。

「ヤガミが優しいと、なんか変…。」
「…そんなに俺は冷たいか。」
「んー? ていうか、ぶきっちょ…でも別に、どっちでも…ヤガミはヤガミだし…。」
自分が何を喋っているのかの自覚さえあるのかどうか、はるかはそれが限界のように再びまぶたを閉じると、今度こそ規則正しく安らかな寝息を立て始めた。取り残されたヤガミは、はるかが眼を覚まさないようにぎりぎりまで押さえ込んだ小さな声で、ぶつぶつと呟いた。
「…おい、この状況で寝るな…襲われても知らないぞ。」

|

« 清涼のお松明 | トップページ | 女神の秘蹟 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 阿蘇の御前迎:

« 清涼のお松明 | トップページ | 女神の秘蹟 »