えおすとれもなと
「…おい、はるか。」
「んー…」
「そろそろ起きろ。」
低く抑えられたヤガミの声が響いて、はるかは夢の中から引き戻され、重いまぶたを辛うじて薄く開いた。最初は、静かで寂しい夢を見ていたような、だがそれが何処かで別の夢にすり替わったような、そんな微かな記憶が脳裏を掠めて、消えて行った。誰かの冷たい手が、ぎこちなくも優しく、自分の頬を辿っている。ゆっくりと焦点が戻って来た暗い視界に、ぼんやりと浮かび上がるように見えるのが、自分の顔をのぞき込んでいるヤガミのシルエットであることに気が付いて、はるかは鈍い瞬きを繰り返した。
「…どうしてヤガミが、こんな所にいるのよ…」
「……ここは俺の部屋だ。」
「…うん?」
意外な返事に思わず意識が呼び戻されて、今度こそはるかはしっかりとした瞬きで微睡みを追い払うと、改めて自分の周囲を見回した。夜明けの船でクルーに与えられる個室は、どの部屋もほぼ同じ作りではあったが、皆それぞれに自分の身の回りを居心地良くするために、あれこれと私物で飾るのが常であった。中でもはるかは、艦内でも自室に持ち込んでいる品物の多さで有名な程である。しかし今はるかが横たわっている、薄暗く照明の絞られたベッドスペースは、そのおぼろげな視野に入るものも特には見当たらずに、実に殺風景なままになっている。
「…ヤガミの部屋…?」
「そうだ、思い出したか。」
「あー、そうか、私寝ちゃったのね…。」
はるかが横になっているベッドの脇に腰を降ろし、手を伸ばしてはるかの頬を撫でていたヤガミは、その手を止め、瞬間何かを言いたげな表情ではるかをじっと見つめた。だが結局ヤガミは何も言わずに手を引くと、音も無く立ち上がってそのまま背を向け、光のもれている隣室へと歩み去った。
何時になく静かで無口なヤガミの態度に、はるかははたと我に返ると、思わず勢いよくその場で身を起こした。ヤガミを待っている間に、くたびれて眠ってしまったことまではちゃんと覚えている。その後部屋に戻って来たヤガミと、二言三言会話を交わしたような覚えはあるのだが、いま一つその内容はよく覚えていなかった。さてはまた何かやらかしてしまったかと、少し焦ったはるかは、手早く髪を直しながらベッドから立ち上がると、明るい照明の中へとヤガミの後を追いかけた。
「ええっとー、私ベッドに勝手にもぐりこんじゃってたの?」
「……いや。」
「床のラグで寝てたような、気がするんだけども。」
ヤガミは足を止めて振り返ると、意味ありげに少し眇めた目ではるかを見たが、結局何も言わずに、そのまま再び踵を返した。何処ともなく、いつもと違っているヤガミの態度に首を傾げつつも、うーんとその場で猫のように伸びをしてから、はるかはふと、部屋の中に香しいコーヒーの香りが満ちていることに気が付いた。
その香りの方向へと目を彷徨わせると、はるかが持ち込んで床に敷いたラグの上に、これもはるかが持ち込んだバスケットから取り出されたサンドイッチが、きれいに並べられている。その前には、艦内ではお馴染みのコーヒーカップが二人分置かれて、しかしおそらくは、厨房のコーヒーメーカーのものではない深い香りを漂わせていた。ヤガミはその小さなパーティスペースへ歩み寄ると、無造作にそこへと腰を下ろした。ちょうど人一人分をその傍らに空けてあるのが、はるかの場所だということなのだろう。何処かペースを乱されているような気がしてならないままに、はるかはとぼとぼとヤガミに追いついて、ためらいがちに口を開いた。
「えーと、ここに座れってこと?」
「……好きなところに、座ればいいだろう。」
「ねー、何怒ってるのよ。私、また何か寝ぼけてやらかした?」
「…いや、怒ってる訳じゃない。」
「だって、なんかヤガミ変なんだもん。」
「……。」
半ば口を尖らせたはるかの言葉に、ヤガミは彼女を見上げながら何かを言いかけたが、それでも何も言わずに視線を下げて、また黙り込んだ。はたと気が付いたはるかは、慌てて腰を下ろすと、ヤガミの傍らへと身を滑らせた。遅まきながら、ヤガミが実は落ち込んでいるのだということに気が付いたのである。
「ちょ、ちょっと時間は経ってるけど、まだサンドイッチ大丈夫よね。そういえば、私がベッドを占領してたということは、ヤガミもしかして雑魚寝…。」
「…無理に盛り上げようとしなくてもいい。」
「えっと…」
「それよりも、これを食べたら少し、付き合って欲しいんだが。」
「う、うん。それは構わないけど…。」
それきり再び黙り込んだヤガミは、黙々とサンドイッチを口に運んでいる。仕方なくはるかもそれに習い、黙って夕べのつまみになる筈だった豪華版のサンドイッチを、もそもそと食べ始めた。ちらりと時計に目をやると、勤務のシフトにはまだ随分と間が空いている筈の時間である。
敵に追い回されることのない最近の夜明けの船は、普通の都市船と同じような、一般的な昼夜の生活時間が定着していた。未だ早朝と言っていいだろうこの時間に、一体どうして起こされたのかと、はるかが頭の中を疑問符で埋め尽くしているのを余所に、ヤガミは完全に押し黙ったままコーヒーを手にして、その香りを漂わせた。はるかがあれこれと世話を焼くので、最近のヤガミは特に余分な手間を掛けることもなかったが、元々のヤガミは、かなり味には煩い部類の人間である。たぶん彼が淹れたのであろう深い味わいのコーヒーを手に取りながら、はるかはぽつりと呟いた。
「これ、良い匂いだね。」
「……そうか。」
ほんの少し、ヤガミの雰囲気が和らいだことに満足して、はるかは微かにはにかんだような笑みを浮かべて見せた。そんなはるかを、見るとも無しに横目で眺めながら、ヤガミはぼそりと声をかけた。
「…そろそろ、時間だな。」
「時間?」
「ああ、今艦が浮上している。夜明けを、見に行かないか。」
「…へえ、なるほど、夜明けか…。」
はるかの返事を、一瞬緊張したような面持ちで待ち構えたヤガミの目前で、はるかはいきなり勢いよく立ち上がった。唐突なはるかの行動に、思わず目を見張ったヤガミに向かって、はるかは改めてその顔を覗き込むようにしながら、にこりと微笑んだ。
「うん、夜明け、見に行こう。」
はるかの返事に、ほっとしたように表情を緩めながらヤガミが立ち上がると、まるでさも当たり前のようなさりげなさで、ふわりとはるかは寄り添うと、するりと腕を絡ませた。そんなはるかに、驚いたとも、どこかそれを待っていたともつかない微妙な面持ちで視線を送ったヤガミだったが、結局また口を開くことも無く、そのまま部屋を出て二人は歩き始めた。腕を預けて傍らに寄り添いながら、決してその重さを預けること無く、自分の脚でしっかりと歩くはるかの腕は、軽いままである。それを逃がすまいとするかのように、ヤガミは思わず、その上に反対側から腕を被せて、はるかの腕を繋ぎ止めた。
そんなヤガミの横顔を、はるかが見詰めているのには気が付いていたが、ヤガミはそのまま真っ直ぐに前を向いて、ゆったりと歩き続けた。誰にも会う事なく艦内を抜け、厳つい扉を軋ませながら開いて、トップデッキへと通路をくぐる。しんと冷えた空気が二人を押し包んだが、不思議に風は凪いでいた。辺りはまだ薄暗かったが、空だけは、暗い夜を拭う軽やかな曙光に染め上げられていた。
その中でも一際明るい方角へ、ヤガミが迷わず歩みを進めると、期せずしてその一歩は、傍らのはるかとぴたりと同じリズムを刻んだ。思わず顔を見合わせながらも、そのまま留まる事なく続いた二人の歩調は、ゆっくりとずれながら、また再び同期するようにタイミングを合わせている。はるかが黙ったままにこにこと笑みを見せているのを、視界の横隅に捉えながら、ヤガミもまたほんの微かに、唇の端に笑みを浮かび上がらせた。
二人の向かうその方角から、最初の光が海を割って零れ落ちた。地球で見るよりは随分と弱い、しかし火星においてはこの上も無く暖かな陽の恵みが、見る間に世界を染め上げて行く。思わずその眩しさに眼を細めて、はるかは空いていた左手を目の前にかざしながら、小さく呟いた。
「うーん、火星の夜明けも、やっぱりまぶしいのね…。」
その指の隙間から、暁の光があふれるのを眼にして、ヤガミは反射的にその手を奪い取った。驚いてヤガミの顔を見るはるかに構わず、ヤガミははるかの手の平をそっと握らせてから、もう一度慎重に、太陽にかざして見せた。その白い指の上に、ちょうど太陽が乗る位置で、ヤガミの手が止まる。はっとしてそれを振り返ったはるかの眼が、大きく見開かれた。その耳元に顔を寄せて、ヤガミは、夜明けの太陽だけが立ち会う誓いの言葉を、静かに囁いた。
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