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2009年5月 6日 (水)

尚武の花

 

 

***   あやめの刀   ***

 

夢の中を、白く光る風のような何かが駆け抜けた気がして、ヤガミははっと意識を取り戻した。涼やかでそれでいて優しい、そして同時に刃の如く鋭利に走る光の残像が、夢と現実の世界とを切り離したように一筋の線を脳裏に刻んでいる。その境を超えて現実へと引き戻されたヤガミは、とはいえ、目を覚ましたその瞬間に身体を動かすことなく、まずは意識もしないうちに周囲の気配を探って、安全を確認していた。自分の置かれた状況を把握出来ないままにアクションを起こしてしまう怖さを、ヤガミは骨身に染みて思い知らされていたからだ。

だが今日ばかりは、記憶を辿って自分が今何処で、どんな状況で横になっているのかを思い出したヤガミは、少し慌てて薄く目を開いた。寝入った時よりもずっと熱を緩めて、斜めに差し込む弱い光に満たされたその視界の隅に、はるかの姿が映っている。線の細い綺麗な横顔の、あごから首筋へと続く滑らかな曲線に一瞬見とれたヤガミは、真下から見上げる、その在り得ない角度の映像を脳裏に焼き付けようとするかのように、視線を外すことが出来ずにそのまま光景に見入っていた。

ぶつぶつと形ばかりの文句を口にしたものの、本心では嫌がるほどの様子も無く、結局ひざ枕に同意したはるかは、さすがに正座では厳しいと思ったのか、投げ出した脚の上にヤガミの頭を乗せて、大人しく座ったままでいてくれたようだ。すらりと伸びたその脚に、ぎこちなくそっと頭を乗せてはみたが、とても眠れるような心境ではないなどと考えていたヤガミだったが、いつの間にやら本当に寝入ってしまったらしい。眠っているのと同じ、規則正しい緩やかな呼吸を意図的に整えながら、ヤガミは改めて、これまで目にしたことの無いはるかの横顔を観察してみた。

視線を何処か遠くへ向けたままのはるかは、ヤガミが目を覚ましているのには、まだ気が付かないでいるようだ。一体どれぐらいの時間が経っているのかと気にしながらも、いつ、はるかのその猫のように気まぐれな黒い瞳が振り返り、盗み見に気が付くかと、息を殺していたヤガミは、だがはるかが一向に振り返る様子がないことに痺れを切らしたのか、自分の傍らへと投げ出されていたはるかの手を、なんの前触れもないままにいきなり握り締めた。

「きゃっ、やだ、ヤガミ起きてたの?」
さすがにびくりと身体を震わせて驚くはるかには構わず、その手を押さえ込んだままで、ヤガミは身体を起こしながら、はるかにのしかかるようにしてそのまま身を寄せた。手を掴まれるのは相変わらず苦手らしいはるかが、無意識にその手を取り戻そうと身を引きながら、口元を尖らせるのが見える。
「なぁに、狸寝入りだったの?」
「…いや、そんなことはない。本当に寝るつもりは、なかったんだが…。」
「そう? よく眠ってたみたい。やっぱり、くたびれてたんじゃないの?」

至近距離に捉えたはるかの表情が、少し心配そうに、そして少しほっとしたように微笑むのを見て、ヤガミは静かに息を吐き出すと、そのままさらに身を寄せてはるかの首筋に顔を埋めてもたれ掛かった。はるかが笑みをもらしたような、柔らかい振動と吐息とが伝わってくる。押さえ込んだままのはるかの手を、離してやろうかと迷ったが、結局そのまま、ヤガミは自分の手の力を緩めることが出来ないでいた。普段はなんだかんだと文句を言い立てるはるかは、しかしこんな時に限っては、まるでその沈黙をもってヤガミを勇気付けようとでもするかのように、じっと押し黙ったままでいる。

それがどんなにかけがえの無い大切な時間であろうと、ヤガミはその楽園に、心の底から安住することの出来ないでいる自分を、常に意識し続けていた。夜明けの船はヤガミにとって、紛れも無く、長い旅路の果てにようやく手に入れた、還るべきホームであった。だがそれでもヤガミは、他のクルー達には決して知らされることのない秘密を抱え込んで、火星の行く末のために暗躍を繰り返さなければならない。はるかにすら、全てを在りのままに語ったことはないのだ。にもかかわらず、まるで何もかも気が付いていて、なおヤガミを許すと沈黙の内に宣言するかのように、はるかは黙ったまま、ヤガミの傍らに在り続けていた。

だが今、その沈黙を破ったのは、他でもなくはるかの方だった。胸元に寄せられたヤガミの耳に囁くように、はるかが静かに口を開いた。
「…ヤガミ、そろそろ帰ろう。」
その言葉を聞いて、ヤガミははるかにもたれ掛かったそのままで、閉じられていた重いまぶたをのろのろと開いた。
「……ここにこうしていれば、二人きりだ…」
半ば吐息に埋もれたような、不明瞭なヤガミの言葉に、だがはるかは、はっきりと異を唱えた。
「そうだね。でも、帰ろう。我が愛しき戦の庭へ。」

先程の夢の中の白い刃が、今一度ヤガミの脳裏に閃いたような気がした。瞬間思わず息を止めたヤガミは、それからゆっくりと、己の内から絞り出すような吐息を吐き出した。その代わりに、新しい息をしっかりと吸い込んだヤガミは、ゆっくりと身をもたげてはるかの顔を覗き込んだ。底の無い、奈落の深遠のような黒い瞳が、じっとヤガミを見詰めている。これほど戦場に似つかわしくない魂こそが、戦いの始まりを告げる朝風を率いて駆けて行くのは何故だろう。ヤガミは、新しい誓いを空と海の青に刻むように、静かに言葉を返した。
「解った。帰ろう、夜明けの船へ。」

それからヤガミは、まるで人ではない者のような透明な笑みを浮かべるはるかに、そっと頬を寄せた。そして、その頬が間違いなく人の暖かさを持っていることを確認して、満足したとでもいうように、改めて両の手で包み込むと、誓いの言葉を刻み込むようにして、静かに唇を重ねた。

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