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2009年7月 9日 (木)

鬼灯市

 

 

***   月の鏡   ***

 

「うーん、食べた食べた。お腹いっぱい。」
「…タキガワじゃあるまいし。色気の無いこと、この上ないな。」
「えー、今更そんなことを言われても。美味しいものは、美味しいのよ。美味しいものをいっぱい食べて、幸せ、これは譲れません。」
上機嫌に明るい声を響かせ、踊るようにふわふわと足取りを泳がせながら、ヤガミの数歩先を、はるかが歩いて行く。暗い夜の道を、辛うじてぼんやりと照らし出しているのは、先程まで二人が席に着いていた高級レストランの、巨大なガラス張りの窓からもれてくる照明の光である。レトロなレンガを模した洒落た床材で、綺麗に舗装された店舗の周辺とは対称的に、そのさらに外側には、黒々とした夜の草原が闇の海のように広がっている。

「でもヤガミ、よくこんなお店知ってたわね。」
「…だから言っただろう。客の視線から見た店舗の評価を頼まれたんだ。こんなコンセプトの店だから、独りで行くんじゃ不自然なんで…。」
「はいはい、それで私を誘ってくれたのね。よーく分かってますとも。」
くるりと振り返りながら、例によって猫のように唇の端を吊り上げ、思わせ振りな視線を投げかけてから、はるかは、またくると身を翻し背を向けて踊るように歩き続けている。我ながら見え見えの言い訳という自覚のあるヤガミは、こうして見破られつつ言い訳を繰り返すのと、リサーチにリサーチを重ねて場所を厳選した上に、向こうから招待させるところまで仕組んだといっそ白状してしまうのと、どちらがマシだろうかと、一瞬真剣に考え込んだ。

「それにしても、風が観光の目玉になるなんて、火星って面白いね。」
「他の都市船に比べれば、この空気は格段に”美味い”からな。農業型の耕地面積レベルの植物が無ければ手に入らないとなれば、立派に観光名所に成り得る。これだけは合成も不可能だろう。」
「私が凄いなーと思うのは、ちゃんとその区別が、人間に付けられるということなのよ。」
この農業型の都市船としては大変珍しい高級レストラン最大の売り物は、火星では最も贅沢な環境の部類ともされる、芳しい本物の緑の匂いを含んだ風である。大きな湖にもほど近く、周囲より一際高い位置にある店舗には、新鮮な外気を取り入れるための最新設備が備えられ、食事の妨げにならないよう弱められつつも、決して澱むことのない空調が設計されていた。店舗の一部では、最低限を残して外壁も取り外され、天然の風に吹かれながら食事を楽しむことも出来る。

戦闘が終結し、少なくとも表面上では平和を取り戻した火星では、徐々に新しい産業への模索が進み始めていた。稀に報告される海賊の被害を除いては、火星の海の航行がある程度安定し、都市船間の旅客移動が増加し始めると、それを当て込んで、僅かながら観光産業と言える動きが見られようになってきたのは、その代表的な例のひとつだった。水資源輸出の低迷から、続いて火星独立戦線の戦闘へと巻き込まれたとはいえ、マワスプと呼ばれる火星富裕層は未だ、余暇に注ぎ込む程度の財力は十分に保持している。そんな彼らが、平和な世界にまず求めたのは、長い緊張の時間から解放された喜びの証拠でもある、娯楽産業だったのである。長く閉鎖的な環境に軟禁状態だった反動からか、長く自分達の社会に閉じ籠もりがちだったマワスプ達も、徐々に開放的な環境への適応が進んでいるようだった。

「まあ、本当に空気の”味”に、区別が付いているかどうかは、怪しいものだが。」
「あ、なるほど。観光の目玉なんて、そんなものかなー。」
「そうだな。詰まるところ、あの月のようなものだ。」
夜の草原の広大な風景の空に浮かぶ、丸く明るい月を見やって、ヤガミは唇を歪めただけの微かな笑みを、その口元に張り付けた。本来の火星の月であるフォボスとダイモスは、とうの昔に資源化され跡形も無く消え去り、海中に沈んだ都市船の造り物の空には、降るように美しい星と、一度たりとも火星の夜空を照らしたことは無い美しく丸い月が、冴え冴えと白い面を浮かべている。だが、本物の地球の月の美しさを知り、それがスクリーンに投影されるただの紛い物であると知り尽くしているヤガミでさえ、その穏やかでおぼろな光に、何処か緊張を緩めている自分を、意識せずにはいられないのである。

一方のはるかと言えば、そんなことに頓着する様子も無い。それが自分の心に響いて美しいと感じるのなら、他愛ない子供のおもちゃにさえ、はるかは心の底からの歓声を上げるだろう。ふとヤガミの気持ちに浮かんだその通りに、はるかは月を見上げながら、まるでその腕で月を抱き締めようとするかのように、白い腕をふわりと、天へ向かって差し伸べた。
リサーチの名目を付けたために、総軍の制服を止めるよう言い渡された今夜のはるかは、腰を絞らないストレートなラインの若草色のワンピースの、ノースリーブの肩口から、ほっそりとした腕を覗かせている。その腕のしなやかさを、先程から見るともなしに眺めてしまうヤガミは、天へと広がる花のような白い腕を、捕まえるにはどうしたらいいかと、無意識に思考を巡らせている自分に今更気が付いて、はたと我に返った。そんなヤガミの気持ちを、搦め捕るかのように、はるかの身体が目前でふわりと回る。踊るような爪先立ちの軽い足取りで、はるかが回ると、それを引き立てるような薄いドレスの生地が、風の形を描いて、同じくふわりと広がった。

「またヤガミは、難しいことを考えてるみたいだけどー。別に本物かどうかなんて、どっちでもいいじゃない。ほら、あんなに綺麗なんだから。」
「……鏡のような、月だな。」
「えー、ヤガミは変なこと言うのね。」
「変なこと?」
思っても見なかった言葉を返され、思わずヤガミは首を捻ってはるかに目を向けた。一方のはるかの方も、子供のように無邪気に回るのを止めて、同じように首を傾げながら振り返ると、その場に立ち止まった。ずいぶんと遠くなった店の照明の代わりに、ぼんやりと月が照らし出すはるかの白い顔の中で、その瞳だけが、不思議に反射率の高い光を放ちながらヤガミを見詰め返した。

「月は、鏡よ。決まってるじゃないの。」
「…何だって?」
「ああ、そうか。あんまり一般的な伝説じゃないのか。」
「伝説? どんな伝説だ。」
「ええっとー、太陽はね、あまりに自分が熱過ぎて、世界を焼き尽くしてしまうのが悲しくて、一日の半分は、隠れていることにしたの。でもそうしたらそれは、それが真っ暗な夜になってしまった。だから、今度はその夜の世界が心配で、吾が身を分けて鏡の娘を産んで、隠れたままこっそりとその娘の鏡に写して、夜の世界を照らしている、それが月なの。」
「……そんなモチーフは、初めて聞く。」
「うん、そうかも。もう何処にも無い国の伝説ね。」

低く抑えて囁くような声で、そう告げたはるかの声には、彼女にはまるで不似合いな、それでいてとても彼女らしいような、静かで寂しい響きが込められていた。ヤガミは思わず、大きく目を見張って、じっとはるかを見詰め返した。地球における太陽と月は、古来より対立する二元論の象徴として、敵対するものとして位置付けられることが非常に多い存在だった。しかし、それらを天体として正しく認識するなら、確かに月は、紛れも無く太陽の光の反射そのものなのである。

「幼い娘の身を案じているから、月の光は柔らかくて暖かいと言われているの。どれほど姿は違うとも、世界に降り注ぐ光の全ては、昼も夜も同じひと柱の神の想いである。」
ヤガミが始めて聞く、歌うように不思議なイントネーションで、はるかは静かに囁いた。いつもと同じはるかの声なのに、それはまるで、遠い異国の言葉のように、意味が分かっている筈なのに、同時に全く違う意味をも内包しているような、捉え難い深さを伴ってヤガミの耳に届いた。敵味方のシンボルたる二つの光を、同じひとつと断言するその言葉は、まるで何もかもをその腕に抱こうとする、はるかの優しさそのものであるかのように、ヤガミには思えた。

その声に導かれるようにヤガミは、そっと、はるかに向かって左手を差し伸べた。ただそれだけのことに、万感の想いを込めたように向けられたヤガミの手の平を見やって、はるかがにこりと笑みを見せる。
「……もう少し、歩かないか。」
「んー、そうね、腹ごなしって感じ?」
笑みを含んだ柔らかい声でそう答えながら、はるかは足音も無く進んで、ヤガミの手に自らの手を委ねた。ヤガミがその手をしっかりと握って、ぐっと引き寄せると、その背に翼を持つ風の妖精の身体は、素直に宙を泳いで、彼の傍らへと寄り添った。

「……そうだな、あれだけ食べて、このまま直ぐにシールドシップに籠もってたんじゃ、カロリーオーバーの心配をした方がいいんだろうからな。」
「はっ、しまった。このボディ、もしかして、太るのねっ!」
「…いや、機械義体じゃないから、それはそうだが……どうせなら、もう少し太って…。」
「却下、認めません!」

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