オクターヴの法則
平和になった火星の海を航行する現在の夜明けの船では、以前のように入港時を狙われ戦闘を仕掛けられるというような心配もなく、都市船への寄港は単調な日常の中での、心踊る数少ないイベントのひとつであった。都市船への入港が決まって艦内に通達が回されると、クルー達はそれぞれに息抜きの計画を練り始めて、誰もが何処とはなしに浮かれた気配を漂わせていた。これまでは、そんな息抜きに率先して動き回っていた部類のエノラだったが、しかし今回の寄港には何のプランもなく、状況によっては、下船さえしないで終わってしまうかもしれない、そんな忙しい時間を過ごしていた。
一先ず最初の関門を突破したとはいえ、それが本当に開発のスタートラインに過ぎないということは、ヤガミに釘を刺されるまでもなく、よく承知しているエノラだった。ひとつのパーツを組み替えただけでも、その影響が機体の運動全体に対して、どんな形になって著れるのか、その波及効果を計測するということがどんなに難しいことなのかを、エノラは夜明けの船での経験を通してしっかりと学んでいたのだ。設計の期待した効果は上手く発揮されず、思わぬ形で予想もしなかった性能が突発的に出現する、整備と開発の現場は、そんなことの繰り返しである。その日常の中から、必要とされる機能を、制御可能なシステムとして構築する手掛かりを見つけ出すのに必要なのは、地道に観察と確認を続ける粘り強さなのかもしれなかった。
最低限の当直だけを残し、すっかり人気の少なくなっているハンガーの片隅で、エノラは正にその地道にそのものの、整備担当のBALLS達への作業指示に頭を捻っていた。連携の基本となる作業フローは、それが基礎的であればある程、小さなロスが積み重なれば致命的な結果を招いてしまうことにも成りかねない、整備班の命綱である。こればかりはどんなに技術が進歩しようとも、原始の形のまま変わらない知恵の原点なのではないかと、エノラはふとそんなことを考えた。
思考が目の前の作業から上滑りしてしまうというのは、くたびれているいい証拠である。エノラは仕事の手を休め、腕を天井へと伸ばしてうーんと呟いてから、一休みするためにハンガーのドアへと歩き始めた。ハンガー内にいる限り、周囲を満たし続けている機械動作の重低音のうねりは、背後でドアが閉じると途端に小さくなる。その静けさが少し寂しくすら思えてしまったエノラの耳に、この通路へと続く階段を駆け降りてくる、賑やかな足音が響いた。
「あれ、タッキー?」
それが聞き慣れたタキガワの足音であることに気が付いて、エノラは首を傾げながら声を上げた。今回の寄港を前にして、何やら慌ただしく動き回っていたタキガワは、夜明けの船が港に入るなり、一目散に下船して行った筈である。自分の好きでしていることとはいえ、忙しくて遊ぶ余裕などまるでないエノラは、正直タキガワの薄情さにへそを曲げかけていたのだった。
「あっ、エノラ。良かった、ここにいてくれて。」
「…わ、私を探してたの?」
いつもながらばたばたと忙しないタキガワを出迎えながら、ほんの少し赤くなったエノラは、通路の抑えられた照明なら、それが確認しづらいであろうことに、思わずほっとした。そんなことには到底気が付きそうもない相変わらずのマイペースで、タキガワが歩み寄ってくる。その手に、何やらかさ張る箱がぶら下げられているのに気が付いて、エノラは再び首を傾げてみせた。
「なぁに、その箱。」
「…お、おう、今都市船で受け取って来たんだけどさ…。」
エノラの質問には直接答えず、タキガワはどかどかと近寄ってくると、その勢いのまま、エノラに向かってぐいとその箱を突き出した。きょとんとしたエノラが、思わずタキガワの顔を物問いたげに見詰めると、ぐっと詰まったタキガワはしばらくの間、ぱたぱたと落ち着かない瞬きを繰り返しながら、懸命に言葉を探して考えていた。こんな時のタキガワが、自分の気持ちを表す言葉を見つけ出すのに、必死になっているのだと気が付き初めていたエノラは、その努力を尊重して辛抱強く待っていた。が、やがてタキガワは、はーっと大きなため息を吐き出して脱力すると、ぼそりと呟きを漏らした。
「だ、駄目だ、柄じゃねぇ。」
「? タッキー?」
「最初に言っとくわ。これ、プラモなんだけどさ。」
「プラモデル?」
「そうなんだ。これ、貰ってくんないかな、エノラ。」
「え、私?」
話の流れが飲み込めずに、思い切り怪訝な目で見返すエノラに、タキガワもまた眉間にしわを寄せたまま、ぼそぼそと呟きを続けた。
「とりあえず、中見てくれよ、説明すっから。」
一向に要領を得ないタキガワの話し振りではあったが、少なくともその言葉に込められた真剣な響きだけは、辛うじてエノラにも伝わっていた。エノラは少し考えてから、すいとためらいなく手を伸ばすと、その場で箱の包装をはがし始めた。固唾を飲んで一心にタキガワが見詰める目の前で、無造作に箱を開けたエノラは、その中身を目にするなり、はたと身体の動きを止めた。透明な緩衝材の中に、まるで浮かぶようにして、長い翼が伸びているのが目に入る。その翼が、重力に逆らって天空を舞う為に必要な、計算し尽くされた美しさを持つことを、エノラは一目で見抜き、それに釘付けになっていたのだ。
「…グライダーって言うんだ。その、大気中を、エンジン出力とかじゃなくて、滑空して飛ぶ機体なんだけどさ…。」
「……これ、私に…?」
「えーと、そ、そう。その、なんか記念に、いやその、例のRBで頑張ってくれて、えー、俺もこれから頑張るけどさ、あ、あれ?」
しどろもどろで説明を試みていたタキガワは、その努力にも拘わらず上手く自分の気持ちをまとめることが出来なかったらしく、再び大きなため息をついて言葉を飲み込んだ。それから、何かを観念したとでもいうように、がしがしとピンク色の頭をかき回しながら、ぽつりと呟いた。
「エノラなら、喜んでくれるんじゃねーかなと、思ってさ。」
そのタキガワの言葉が合図であったかのようにエノラは身体の自由を取り戻すと、そっと手を伸ばして、そのプラモデルを箱の中から取り出してみた。美しい流線型を描くボディの両側に、風を捕らえるための計算式を具現化した、長い翼が伸びている。その曲線が、本当に空気を制して浮力とし、空中に浮き上がる瞬間を見たような気がして、エノラは思わず、微かに身を震わせた。
「…これ、ホントに”飛ぶための形”をしてるのね。」
「そ、そうなんだ。本物のグライダーも牽引されて空中に上がってから、滑空で飛ぶんだけどさ、これも条件さえ揃えば、自力で飛ぶんだぜ。」
「これが、飛ぶの?」
「もちろん、デザインは実機と変わんねーリアルモデルだし、強度も重さも、ちゃんと計算されてっから。」
「……凄くきれい…。」
「そうだろ、RBもいいけど、空気中を”形”で飛ぶ機体は、また違うよな。エノラなら、そういうのが分かると思ったんだ。そんで、RBの改良プロジェクト頑張って貰ってるからさ、俺からの、お礼っつーか、その…。」
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