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2009年8月23日 (日)

千灯供養

 

 

***   風の往く道11   ***

 

タキガワ機が希望号を従えてゴールを駆け抜けた瞬間、その信じ難い状況に、居合わせた知類の誰もが思わず我が目を疑ったかのように、ハンガーはしんと静まり返った。せめてゴールシーンぐらいは目で見られるようにと、苦心してして撮影された迫力ある映像には、ほんの僅かの差ではあっても、タキガワが勝利を掴み取ったその様子が、はっきりと捉えられていた。空間を埋め尽くす整備機械の動作音までもが、辺りをはばかって、その響きを押さえ込もうとするような沈黙を破り、変わらず冷静なMAKIのアナウンスが、正確なレースタイムを通達し始める。数字ではっきりと告げられたタキガワの勝利に、ハンガーの面々はやっとのことで意識を取り戻したような有り様だった。

「……え、まさか、タッキーの勝ち…?」
そう無意識に呟いてしまってから、まるで自分で自分の言葉に驚いたとでもいうように、エノラははたと我に返って、周囲の反応を確認しようと視線をさ迷わせた。これまでの綿密なデータ収集から、整備班の内々ではタイムの予想もかなり正確に行われていたが、それを大きく上回る好成績をタキガワが叩き出したのは、紛れも無い事実だった。だがしかし、希望号との勝負ということにかけては、それとは別である。冗談めいて口にしてみることはあっても、正直誰ひとりとして、タキガワが勝てるとは思ってもみなかったのだ。希望号とはるかという存在は、それほどまでに、夜明けの船のクルーにとっても、絶対的な不可侵の勝利の象徴のようなものだった。自分達の手塩にかけた改良RBが、その希望号を押さえて、僅差ではあっても先にゴールを突破した、その事実はじわじわと、整備班員の間に笑顔となって伝染していった。

そんな気配をさりげなく観察しながら、ヤガミは最近ではついぞお目に掛かれなくなった剣呑な表情で、情報の再確認に目を走らせていた。RBがシールドを展開している間の機体状況をリアルタイムで測定するのは、かなり困難な作業ではあるが、今回のようにデータ測定を目的に予めコースを定めて準備を行えば、シールド後方へと発信された情報をエコーで返すような方式で、タイムラグに目をつぶってそれなりの情報収集が可能になる。海流を抜けゴールへ向かって直線を走り始める地点で、希望号はその加速にほんの一瞬ではあるが、間を置いているように見える。もちろんそれは時間で考えればコンマ1秒にも満たないような、正に刹那の遅れでしかなかった。情報を追い切れない整備班の面々では、それに気が付いてさえいない人間の方が多いぐらいかも知れない、そんな些細な違いだというのも確かだった。

だがはるかやタキガワが、これに気が付いていない筈は無いだろうと、ヤガミはその眉間に深い皺を刻み込んだ。彼らのような手練のパイロットであれば、その取るに足らないようなタイミングの遅れが、ある時には死を招くのだということを嫌というほど思い知らされている。これがはるかの出遅れによるものなら、それはRB乗りとして致命的なミスであり、今回のようなスピードレースにおいては、決定的な敗因に間違いない。だが、もしも、これがミスではないのだとしたら。

ちょうどその時、ハンガーに立ち込めた浮ついた動揺の雰囲気を破るようにして、まず先に希望号着艦のアナウンスが響いた。どこか上の空ながら、整備班員達が受け入れ準備にあたふたと動き始める。その間を縫い止めるように、身動きもせずにじっとしたまま厳しい表情で待ち構えていたヤガミの目の前で、投げやりで不貞腐れたような仕草のはるかは、這うように希望号から抜け出して来ると、開口一番呟いた。
「ちぇー、失敗したー。」
「おい、はるか。」
「んー、なによ、お小言ならまた後で聞くからー。」
「お小言って、お前な…。」

その二人の背後で、続いてタキガワ機の着艦してきた軋むような重低音が響き渡った。我先にといった様子で、整備班員達が駆け寄っていくのを、さらに表情を険しくしながら見送ったヤガミの後方から、案の定というべきか、床に何かを叩き付けたような派手な物音と共に、タキガワの声が高く響いた。
「冗談じゃねぇっ!!」
思わず舌打ちしたくなるのを何とかこらえたヤガミは、目前のはるかの顔をちらと見やったが、彼女はタキガワの大声に、単純に驚いたかのように目を丸くしている。全く状況を把握していなさそうなその表情に、ヤガミは深々とため息をもらしながら、どかどかと荒々しく近付いてくるタキガワの足音に、くるりと振り返った。顔を真っ赤にして口をへの字に結んだ憮然とした表情で歩み寄るタキガワの後ろには、始めて見るタキガワの剣幕に驚いて、青冷めた顔のエノラがおろおろしながら付き従っている。間に割って入ろうとしたヤガミのことなど、まるで目には入らなかったかのような勢いで、タキガワは真っ直ぐにはるかに向かって突き進むと、再び言葉を叩き付けた。

「ウィッカ、俺のことバカにしてんのかよっ!」
「まあ、落ち着け、タキガワ。」
今にもはるかに掴みかからんばかりのタキガワの様子に、ヤガミは反射的に、その前に立ち塞がるようにして身を乗り出した。だが、事態をまるで理解していないらしいはるかは、きょとんとした声で、ヤガミの後ろからそのまま無造作な返事を返した。
「え、何言ってるのよ、莫迦になんてしてないわよ。」
「だってそうじゃねぇか、あんな凡ミス、よりにもよってウィッカがやらかすんのなんて、今まで見たことねぇ。それとも、わざとあんなことしたのかよ。」
「そんな、わざと負けたり、してないけど…。」
「だったら、手ぇ抜いてたんじゃねぇのか。ウィッカは操縦にムラはあっても、ここぞってタイミングは絶対に外さない。それぐらいこと、俺には分かんないって思ってんのかよ!」
「そんなこと言われても…。」

予想もしなかったタキガワの怒りに、心底戸惑っているらしいはるかが、何時になく弱気な声を上げる。これが本当に意図的に、はるかがタキガワに勝ちを譲ったとでもいうならまだ事は簡単なのだがと、ヤガミもまた自分の口をへの字に結んで、この状況をどう収めようかと懸命に頭を回転させていた。さすが直接手合わせしたタキガワの勘は、的を射ているのではないかとヤガミは思った。はるかは確かにその行動と同じく、操縦や集中力にもむらのあるパイロットだったが、逆に必要な瞬間には、普段からは考えられないような確率でタイミングを合わせて外すことがない。今日のレースの状況では、やはり何処か本気では無かったのだろう。だがそれは、彼女自身にすらコントロール出来ない、言ってしまえばよく分かっていないかもしれない価値基準によるものであり、決してタキガワを軽んじているという訳ではないのだと、どう説明したらいいものかと、正直ヤガミは頭を抱えたくなった。

だがはるかには、少なくともタキガワが本気で怒っているのだという、その感情ははっきりと理解出来たらしい。珍しくも真剣な声で、はるかはタキガワに話し掛けた。
「タキガワ、私はこのレースでわざと負けたりしてないし、いい加減に勝負したつもりもないわよ。私の負けは負けなんだから。」
「だったら、どうしてあの海流から抜けた再スタートで出遅れたんだよ。あれが有り得ないようなミスだって、ウィッカだってヤガミだって、分かってるんだろ。」
「そう言われても、ミスはミスだとしか…。」
困惑のにじむはるかの声を聞きながら、恐らくは、あれが本当の意味でのはるかの実力なのだろうとヤガミは思った。普段のはるかのテストパターンから考えるのなら、実際はるかはあの程度の実力のパイロットなのだ。だが、戦闘に出撃して何らかの危機に直面したその時、逆に彼女は、有り得ないような反応を見せているということに他ならない。その限界を飛び越えてしまう何らかの条件が、このレースには足らなかったのである。

その時、必死に善後策に頭を捻っていたヤガミの隙をつくようにして、はるかがぽつりと、不思議な程に静かな、何処か胸に沁みるような声で呟いた。
「私には、よく解らない。勝ち負けが、そんなに大事なの?」
「…え、ウィッカ?」
「レースに手を抜いたつもりはないし、タキガワを莫迦にしたり、わざと勝ちを譲ったりもしてないわ。でも、レースのルールなんて、どんな風にだって決められる。その決められた勝ち負けだけが、そんなに大事なの?」
「勝ち負けが、大事かって、そんなこと…。」
当たり前じゃないかとそう言い返そうとして、タキガワはその言葉を自ら飲み込んだ。タキガワのように、生まれた瞬間から勝負の世界の価値観に身を置いている人間には、勝敗とは即ち自らの存在意義と直結している。勝ち負けさえ自分自身の基準で決め、さしてルール上の勝敗には拘らないと言い放つはるかの感覚は、それこそ想像も出来ないような未知の価値観だろう。

しかしタキガワは、そこではたと我に返ったように息を飲むと、まるで恐る恐るとでもいうように、ゆっくりと自分の背後を振り返った。そこには、今にも泣き出しそうに大きく目を見張ったエノラが、緊張に顔を強ばらせたまま立ち竦んでいる。それが、自分のことを心配しての表情だと思い至ったタキガワは、今までの勢いは何処へやら、こちらもどうしていいのか分からなくなってしまったかのように呆然と立ち竦んだ。タキガワの勢いが収まったを見計らったヤガミは間髪を入れずに、極めて事務的な口調でてきぱきと指示を飛ばした。
「…とりあえず、この問答はここで一時休戦だ。パイロットはさっさと自室へ戻って各自頭を冷やせ。整備班員は予定通り機体の状態チェックを開始、データ解析は後回しにして、エノラも少し部屋で休んでくるといい。」

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