石清水祭
レース開始の予告が通達され、待機の号令に従って記録的な速度で整備班が引き上げると、ハンガーは突然、何時にない静けさに包み込まれた。取り残された整備機械達の動作音までもが、まるで身の置き所がないとでも言いたげに、懸命に鳴りを潜めているようである。やじ馬の物見高い熱気でも、手順に追われた上の空でもなく、ようやく程よい緊張感を維持出来るようになったかと、ヤガミが渋い及第点を脳内の閻魔帳に記す間にも、MAKIのカウントダウンは正確無比に読み上げられ、まるで静寂を際立たせるかのように刻まれていた。
そのただ中で、ハンガー中央に取り残されたパイロット二人は、例によって背中合わせのまま微動だにせずに佇んでいた。はるかの背後に立ったタキガワが何かに気が付くのではないかと、その様子をじっと伺っていたヤガミだったが、はるかの背の、目に見えないその風のような羽は、まるで背後のタキガワを気遣うかのように先程から淡く薄く空気に紛れながら、それでも密やかな優しい音を奏で続けている。
流れゆく時の無情さを代行するように刻まれ続けたMAKIの声が、スタートを告げた瞬間、凍りついていたパイロット達の身体は弾かれたように走り始めた。前回と同じ場所に陣取ったエノラが、少しだけ強ばった笑みで大きく頷いているのを横目に眺めながら、タキガワはその目前でコックピットへと飛び込んで、閉ざされた闇の中へと飲み込まれた。RBがその口を閉じてしまえば、パイロットは世界から切り離され、自分を取り巻いている機械の内部がその認識の全てとなる。数え切れない程に繰り返している発進手順は、何の意識もせずに繰り返すことが可能なぐらいに身体に染み付いていたが、それでもタキガワは、自分の感覚をひとつひとつRBへと刻み込むようにして、忙しなく自分の目を走らせ手を動かし続けた。
この世界の時間を支配しているのは、パイロット自身の気持ちのちからでなくてはならない。タキガワはRBより他には聴く者の無い周囲の闇に向かって、己の一族によって連綿と守られてきた古の約定を、もう一度今へと蘇らせて唱え始めた。命を預けるまでに信頼しているパートナーのRBであろうとも、この支配権を譲り渡せば、あっと言う間にそれはマシン達の時間軸、精密で狂いもなく刻まれるが故に、どれもが同質で没個性という運命に捕らえられてしまう。人間が持っているような、不安定である代償として時に爆発的振れ幅を獲得するダイナミズムを、どれだけRBに要求出来るのか、それがパイロットの能力そのものであるのかもしれなかった。
ランダムに選出された今回のレースコースが、スクリーンに表示されるのを確認しながら、タキガワは自分の頭の中で素早くコース取りの設計図を組み立て始めた。前回と同じように規定の直線を駆け抜けた後、今回は短い距離にポイント数を配置して、数多くの方向転換をこなさなくてはならないようである。それぞれの方向へと進路を変える際の速度ロスを、どれだけ極限出来るのか、ひとつのマニューバ選択が勝敗を決することにもなりかねない、精密な操縦を要求されるコース設計を読み取って、タキガワは思わず、その口元を微かに緩めた。
既に直線加速に突入している二機のRBは、前回と全く同じようにタキガワ機が先行し、ほんの僅かに遅れて希望号が付き従っている。マニューバ選択が厳しくなればなる程、タキガワには有利に働く筈だった。逆にはるかの独壇場である海流横断は、今回これまでで一番弱い流れを、レース中盤に一度こなすだけらしい。その後、後半にもポイントを小刻みに移動しなければならないこのコースは、まず間違いなくタキガワに最適なコース設計であるように思えた。
夜明けの船ハンガーのスクリーンに映し出された、その同じコース概要を同じタイミングで読み取りながら、ヤガミは思わず眼差しを鋭く引き締めた。運命というのはよく出来ているものだと、ヤガミは久しぶりにその口元を皮肉に歪めながら考えた。食い入る様な目を各種のセンサーへと走らせている整備班員達を確認するまでもなく、今回のこのコースは誰がどう見てもタキガワのために作られたような設計であり、はるかには不利なのである。MAKIが設計したランダム選択のためのコースプランは、全てに目を通していたヤガミだが、よりにもよってこのコースが、このタイミングで選ばれることになろうとは、さすがのヤガミも全くの想定外だった。
それでも一度動き出してしまえば、そのゲームに干渉することはヤガミにすら不可能である。厳しい表情でパラメータの山に目を走らせていたヤガミは、ふと違和感を感じて、その内のひとつに目を止めた。夜明けの船に背を向けて、一目散に駆け抜けて行くこの最初の直線は、RBの状態データを最も確認しやすい場所だった。プロトタイプの機体に万が一の事態が発生した場合に、いち早くその兆候を捉えるためのそのセンサー群が今、希望号の奇妙な行動をヤガミの目前に提示していた。
シールドを大きく展開し真っ直ぐに直線を加速している間は、通常RBの機体は最も安定している。絶対物理防壁のその恩恵に浴している限り、どんなに加速しても、その摩擦や反動の負荷はRBを襲うことがないからだ。機体にかかる圧力を考慮しないRBは、シールドの内側でどんな態勢を取っても、その全体の運動にはほとんど影響せず、結果RB本体の態勢コントロールは、方向転換の際の急激な抵抗の発生に備える程度の動きが要求されるだけでしかない。
はるかはこのRBの態勢を、まるで人間のように精密に状況に適応させてコントロールし、敢えてシールドを引き絞ることまでしてみせていたが、それでも直線加速のこの場所でRBに要求される動きは何もない筈だった。現にトポロジーレーダー上に映し出されているのは、最も基本的なシールドダッシュを繰り返し、加速し続けるRBの姿に過ぎなかった。だが、機体の不具合を観測するために、シールド後方からその中を覗き込み、RBの姿勢制御を表すセンサーには、シールドの内部でまるで独楽のようにくるくると回転している希望号の姿を捉えていた。
時を同じくして、タキガワも希望号の異変に気が付くこととなった。最初の直線加速後に小刻みな方向転換の求められる今回のコースでは、如何にタキガワと言えども、調子にのってそう思い切りのよい超高速を見せつける訳にもいかない。速度の上限を見極めようと唇を引き結んでタキガワが決断しようとした、ちょうどその時だった。最大加速を諦め、定速の維持に入ろうとするタキガワ機を尻目に、希望号がさらなる加速を見せて強引に遅れを詰めて追いすがったのだ。
はるかもまた、セオリー通りに速度調整に入るものとばかり思っていたタキガワは、RBの闇の中で思わず不審の声を漏らした。ここで加速し過ぎれば、方向転換の際に機体に襲ってくる反動は大きくなり過ぎ、結局速度ロスになってしまうことは間違いない。だがこの程度のことを、はるかが判断出来ない筈もなかった。思わずいったん組み立てたマニューバ連携の設計図を再確認してしまったタキガワだが、彼のその本能にまで蓄積された経験値の何処を探しても、この状況にこの速度で適応する方法は見つからない。じりじりと差を詰めてくる希望号を睨みながらも、タキガワは最初の自分の選択を信じて肝を据えることにした。それはタキガワ家250年の頂点としての、彼の決断でもあった。そして。
最初のポイントを駆け抜けたタキガワが、これ以上はないというタイミングで旋回による方向調整をかけた瞬間に、それは起こった。さらに深海方面へとダイブをかけようとしたタキガワ機に、ぐいとさらに追いすがって、希望号が遅れを切り刻んで詰めて来たのである。無意識に驚きの声を上げているタキガワの感情さえ切り離して、彼の身体は予定通りのマニューバ選択で深度を確保する。だが希望号はいつの間にか、不思議な程に滑らかな曲線軌道を描いて、難無くその進路を海底へと向けているのだ。はるかがどんなマニューバを繋いだのか、タキガワには分からなかった。次のポイントへの自機コントロールのタイミングを測りながらも、タキガワはその希望号の動きに適応するRBの動作パターンを、必死に脳内から検索しようとし続けた。
同じことは夜明けの船の艦内でも起こっていた。RBの機動を知り尽くした整備班一同が首を揃えたハンガーでは、そのコースを読み解きながら、タキガワが選択した速度とマニューバ選択が最適だと、誰もが思っていた。全く同じ選択を例えはるかが実行出来たとしても、それでは遅れをそのまま維持することしか、出来ない筈なのである。そこに居合わせた誰ひとりとして、希望号がどんなマニューバを選び取ったのかを認識出来ず、ハンガーはほとんどパニックに陥った。
「え、え? 今の、なに? どうしてあの速度で、あんな軌道に入れるの?」
「……エノラ、機体抵抗の測定は?」
「それも、おかしいの。タキガワ機の方が、むしろ負荷が大きいぐらい。希望号はどうやって、あの速度からこんなに抵抗を押さえ込んでるの? それに、マニューバ選択の記録が出てない…。」
予想外の事態に混乱の極みにありながらも、整備班の面々は自分達の責務を果たすべく、データの収集に目の色を変えて奔走していた。事故では無いが、予想外の事態であることは間違いない。機体性能の専門家である彼らは、現状を把握するのに必要なデータを求めて、膨大なセンサー群の再確認を始めている。
だがヤガミは彼らとは対照的に、ゆったりと落ち着いているとでもいうように、どちらかというと脱力したようなため息を吐きながら、改めてRB達の映し出されたスクリーンに視線を投げた。どれだけ必死にデータを集めたところで、はるかが一体何をやらかしたのか、その正体を現時点で把握することは難しいだろう。観測とはつまり、そこに発生するであろう現象を予測して、それに適した観測装置の設置から始まるものである。完全に予想外の、在り得ない事象を、後から捕捉するのはほぼ不可能なのである。だが、この現象から逆算するのなら、適合する答えは限られている。はるかはRBの操縦マニューバを、解体してしまったのだ。
絶対物理防壁は事実上、物理的に世界と世界とを切り離してしまう機構である。このシールドを掲げて直線を進む限りにおいては、RBはまるで世界の物理法則から逃れ、当然世界から受けるべき反動を、棚上げしているような状態を維持することが出来た。その摩擦ゼロのマジックは、即ち、直進する限りにおいてはその加速を蓄積し続け、理論上は宇宙空間と同じようなほぼ無限大の加速をRBに可能にしてしまうのである。だがそれは物理防壁の外側、つまり別の世界との衝突によって阻まれることになる。火星の海という有限のフィールドにおいては、完全な直進の可能な距離にはもちろん限りがあった。方向転換のその瞬間、理論上の無限大はあくまで机上の空論に引き戻され、棚上げされていた反動が一気にRBに襲いかかることになる。このため、機体の耐久力から逆算した加速可能な速度には、自ずと限界があった。
RB操縦としてパターン化されたマニューバとは、この激突の衝撃を機体耐久力の限界内に収め、非現実的なシールド内の世界と、現実世界との折り合いを付けるためのセオリーに他ならない。火星という特異な戦場の、シールドという不可思議な機構を駆使しての戦闘に適応するため、パイロット先駆者達が編み出した技術の集大成、最適な答えの集合体とも言えるだろう。それはいにしえの飛行機乗り達が、ただ辛うじて風に乗って浮かび上がり、よちよちと真っ直ぐに飛ぶだけの乗り物から、命懸けの曲芸的アクロバットの技術を磨き続け、蓄積し続けて来たのと同じ系譜に属する技術であった。タキガワ家250年の歴史とは、正にそれを積み上げるための歴史でもあった。機械を道具として使役するだけでなく、その発達と共に歩み、開発改良の歴史とさえ歩調を合わせながら、人類が戦うためのシステム達とそれを動かして命を託し共に戦う一族の、連綿と続く共闘の歴史。
だが一方で、それ以外の解答が無いという訳ではないのだ。はるかは、その全てを喰らい尽くし、そしてそれを越えて行くものであった。ヤガミが見つめるその先で、第二ポイントを通過した希望号は、タキガワ機と全く同じ速度で同じマニューバを繋いで方向転換すると、既にほとんど無くなってしまっているその僅かな差を几帳面な程正確に維持したまま、次のポイントへと向かっている。こんな風に、タキガワと同等レベルのマニューバ連携を学習することも、もしかしたらはるかには出来たのかもしれなかった。
しかし、マニューバという操縦技術は、シールドを誰もがある程度のレベルまで使いこなすための技術である反面、あまりに規格化が進み過ぎたステレオタイプに陥っているとも言える。RBのその理論と実践の両方の専門家である筈の整備班ですら、マニューバという既存の枠組みに囚われて希望号の動きの意味を掴みかね、こんな大騒ぎになっているのである。はるかは元々、シールドの出力を敢えて小さくコントロールするという、通常のパイロットでは考えも付かないような操縦方法を好んで選択している。今回も恐らく、自分でRBを操作して、通常なら存在しないような運動を予めシールドの内部で作り出しておくことによって、その条件を織り込んだこれまでには無い、新しいマニューバに匹敵する操縦方法を考え出したのだろう。
恐ろしいのはこんなテクニックを、理論の裏付けも無く、本当の山勘で引き当ててくることである。タキガワには可哀想だがと、ヤガミはもう一度ため息をついた。規模は小さいとは言え、乱流を横断するポイントでの圧倒的な不利を考えれば、マニューバ選択の能力が互角になってしまったタキガワには、ほとんど勝ち目はない。ヤガミはスクリーンの中で、タキガワよりもひとつマニューバを飛ばした希望号が、予想通り僅差のリードをもぎ取る瞬間をじっと見詰めていた。大騒ぎの整備班から、失望とも、どこか安堵とも付かないような、ため息交じりの声がハンガーに響いている。或いは、はるかの手品を何とか解析して、この次のステップに向かおうとする、反骨心の気配のような。
ヤガミは、スクリーンの中の希望号のその背中に、はるかが広げた見えない羽が、人々を前へと誘うその姿が、見えるような気がしてならなかった。それはどんなに未来が遠くとも、それでも人々の鼻先を楽しげに舞い、弾けるような笑い声の光を振り撒いて、暗い夜の闇を朝へと誘う風の妖精の姿だった。
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