かんにえのまつり
はるかは就寝前のひと時、紅茶の豊かな香りの漂う自室で夜食のクッキーをつまみながら、次のレシピ開発にあれこれと考えを巡らせつつのんびりと過ごしていた。最近では、すっかり艦内に定着してしまったお菓子作りの習慣は、じわじわとそのメンバーを広げつつある。新しい顔触れが増えるたび、つまりはレパートリーが増えてゆくというのは、様々な人種や年齢、階層の人間たちが乗り合わせた夜明けの船の、ごちゃまぜの状況を良く表しているかもしれなかった。気まぐれな新レシピの思いつきを、意外にも律義にちょこちょことメモにしていたはるかは、控えめに響いたドアのチャイム音に、はたと顔を上げた。
深夜と言って良い時間帯ということもあったが、夜明けの船の面々は、あまり個室のチャイム音で訪問を告げるという習慣を持たない。急にドアを開けられては困る時には、自動ドアを停止しておくのがマナーであり、それでも完全に施錠してしまえる訳では無いという、軍艦らしい規則は残されていた。勝手に部屋へと入ってくるのが当たり前の艦内で、自分の価値基準としてのマナーを律義に守り続けるのは、やはりその手の礼儀作法に厳しい生活習慣を持つ人々であった。
「はーい。」
「…ウィッカ、まだ起きてる?」
続いて響いたエノラの声に、はるかは思わずぴょんと立ち上がった。予想通りとでもいうべきか、やはり古風な習慣にこだわりを見せるのは、エノラやスイトピーといったマナーを厳しく躾けられた人々である。だが、逆に予想外なのは、そのインターホン越しのエノラの声が、これまで聞いたことも無いような心細さに充ちていたことだ。
「お、起きてるわよー。どうぞ、入ってー。」
反射的に立ち上がりはしたものの、はるかは何とかその声に、のんびりとしたいつも通りの響きを取り戻すことに成功した。そして注意深くいつも通りのテンポを装いながらも、そそくさとドアに歩み寄ってエノラを出迎えた。脳裏をちらりと、仏頂面のヤガミの顔がよぎる。このはるかの部屋を最も頻繁に訪れているのはヤガミだったが、こんな風に来訪を出迎えたのは、恐らくは先日ケーキを持参した時、一回切りのことだろう。
「…あの、ごめんね。こんな時間に…。」
「んー、お夜食タイムでちょうど良かったかも。いま紅茶入れたげるから、どうぞ座ってー。」
「う、うん…。」
突然の深夜の訪問にも関わらず、全くいつも通りのペースで話し掛けるはるかに、ほっとした様子のエノラは、勧められまま素直に小さなソファへと腰を降ろした。いつもなら、のべつ新しいおもちゃを持ち込んで奇妙な置物などが増えていくはるかの部屋を、面白そうに眺め回しているエノラは、しかし今夜は静かに俯いたままでいる。そんなエノラを、ちらちらと横目で観察しながら、はるかは手早く準備を整えてエノラの横へと戻って来た。
「おまたせー。ちょうど苺ジャムを妹が送ってきたから、今日はロシアンティにしてみたの。」
「…日本風の苺ジャム、美味しいよね。」
「そうそう、この間エノラ達に教えてもらったケーキも、美味しかったー。」
いつも通りのおしゃべりを続けながらも、はるかはさりげなくエノラの様子に気を配った。頭の回転が早くおしゃべりなエノラは、普段なら相手を圧倒しそうな程に途切れる事なく言葉を続けられるし、実際タキガワあたりは何度となくやり込められているのだが、今日は何時になく口が重く、その声にもまるで元気が無い。そんな彼女に合せて、段々におしゃべりのトーンを落として言葉を途切れさせたはるかは、手慣れたお茶の用意も終わらせると、エノラの戸惑いに寄り添うようにして、静かに話しかけた。
「はい、おまたせしました、召し上がれ。ジャムはお好みで、自分でどうぞ。」
「あ、うん。頂きます。」
まるでその手を動かすことに集中しているから、言葉まで気が回らないのだとでもいうような真剣さで、エノラは生真面目にジャムをすくって、自分のティーカップへと落とし込んだ。そしてゆっくりと慎重にスプーンを回しながら、それでも次の言葉を見つけることが出来ずに、押し黙ったままでいる。はるかは、そんなエノラの表情をさりげなく伺いながら、特に先をせかすこともなく、自分の紅茶を口に運んでいた。
やがて無言のまま、細心の注意を払うかのような慎重な手つきで、スプーンを置いたエノラは、やはり慎重にティーカップを口に運び、そして始めて、ほっとしたようにその表情を緩めてぽつりと呟いた。
「…美味しい。あったまるね。」
「でしょー、身体がほかほかして、良く眠れるから。」
「…うん、ありがと、ウィッカ。」
「いえいえ。」
何の言葉を交わすこともなくても、不思議に何もかも分かっているようなさりげない優しさで、はるかもまた静かに言葉を返した。その優しさに勇気付けられるようにして、エノラはぽつりと、さらに言葉を続けた。
「……私、タッキーに嫌われちゃうかも。」
「どうして?」
静かではあったが、はるかの言葉は即座に返って来た。その短い問いを、じっと噛み締めるようにしばらく考えていたエノラは、やがてぽつぽつと言葉を零れさせた。
「…だって、食べ物の好き嫌いとおんなじで、子供の頃からずっと信じていることを変えるのは、凄く難しいよね。タッキーにどう話したらいいのか、私、分からなかったの。戦争なんて大っ嫌いって言っても、戦争の周りでどんなことが起こるのか、見たこともなかったら、やっぱり分からないんじゃないかと思って…。」
エノラの瞳から、涙が溢れた。恐らくは、独りでそうして部屋で泣いているうちに、我慢し切れなくなってはるかの部屋へとやってきたのだろう。それでも一度は、涙を押さえて懸命に普通に振る舞おうとして、やはり堪え切れなかったらしいそのエノラの傍らに、はるかは改めてそっと身を寄せた。涙はまだ溢れ続けていたが、エノラは微かに身を震わせながら、なお己の内側で荒れ狂う悲しみの嵐と、じっと戦い続けていた。人の力では到底抗い難い、運命という名の強大な刃に刻み付けられた、拭い去ることの適わないその悲しみの刻印と。
「……でも、エノラとおじいちゃんとは、ちゃんと仲直り出来たんでしょ?」
そのエノラの傍らに、不思議に気配も無く寄り添っていたはるかが、やがて静かな声でぽつりとささやいた。はるかの言葉を聞いて、一瞬その言葉を理解し損ねたらしいエノラは、やがてゆっくりと涙の流れ続けるその頬を上げた。
「…エノラはきっと、この夜明けの船に来た時、とても怖かったと思うけど、でも今は、ちょっとは違うでしょ。」
涙に濡れた瞳を、大きく見開いたままで、エノラはのろのろとはるかの顔を振り返った。そのエノラに、はるかはにこりと、まるでいつも通りの笑顔を向けた。そして、はるかはその黒々とした闇色に光る瞳で、エノラの眼を改めて覗き込んだ。
「タッキーにも、きっと出来る。そう信じてあげて。そうして、一緒に頑張って、一緒に乗り越えよう。」
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