三鬼大権現火渡神事
「…妙なこと?」
「ええっと、そのー、甘えてるとか何とか…。」
「別に、妙なことでもないだろう。言葉通りじゃないか。」
「うーん、よりにもよってヤガミが言うと、変だと思うけどなー。」
互いにいつも通りの混ぜっ返しを続けながらも、いつの間にかはるかの口調には、どこか心配そうな響きが混ざり込んで、声を緩めて静かに囁くような雰囲気が漂い始めていた。はるかの肩に顔を埋めたままのヤガミの声が、くぐもって響くのに合わせているのもあるのだろうが、何時になくはるかのその声が、柔らかく優しい音色を奏でるのをいつまでも聞いていたいような気がして、ヤガミは自分の言葉が、普段なら決して言わないような内容に流れているのに気が付きながらも、それを止めることが出来ないまま取り留めもなく話し続けた。
「…俺がこんなことを言うのは、可笑しいか。」
「可笑しいとかじゃないけど。あんまり言わない内容だっていうのは、事実でしょ。」
「たまにはいいと思うが。普段と違うことを言ってみるのも。」
「たまには、ねえ…。」
暖かい笑いを含んだはるかの声が聞こえ、そのままふんわりとした余韻を漂わせたまま沈黙が訪れた。その沈黙を破ってさらに声を聞いていたい気持ちと、それもまた勿体ないような気持ちがない交ぜになって、ヤガミは贅沢で難しい選択に躊躇したまま、伝わってくるはるかの呼吸のリズムにぼんやりと耳を澄ませていた。
タキガワに先を越されたという気持ちがあるのは、実際ヤガミの本心だった。あのプラネタリウムに設置された巨大な惑星時計の存在を、ヤガミはもちろん知っていたし、あれを見たはるかがどんな反応を示すのか、是非確認してみたいというのは正直な気持ちである。一方で、エノラとタキガワの二番煎じに甘んずるというのもやはり悔しいところではあるし、何よりも、おそらくはるかは彼らの思い出に踏み込んでまで自分が遊びに行くということには、賛成しないのではと思われた。この火星の各都市船の情報については、隅から隅まで把握しているつもりのヤガミだったが、こんな観点からそれらの情報を検証してみたのは、実は初めてのことだった。何処に何があるのか、それがどんな価値とスペックを持っているのか、そんな情報はいくらでもあるが、それをどう楽しむのかなどということは、これまで考えたこともなかったからだ。
エノラとタキガワが取り組んできた一連のプロジェクトにしてみても、独創的な着眼点から進められた斬新なアイデアではあるが、それそのものが達成したスペックの改善というのは、実際にはそれほど目覚ましいものであるという訳ではない。しかし、これを獲得するまでに構築された若手達の組織力、現状の問題点を互いに確認しその改善に取り組むというプロセスそのものの経験値は、今後どんな部門にも応用可能な基礎的な作業フローの手本となっていくだろう。自己改善という能力を身に付けるのは、如何に上から教え込もうとしてもそれで学習できる代物ではない。逆に、自分で考え自分で行動すること、言ってしまうなら自分で自分の道を歩いて行くという、この至極根源的な能力が身に付きさえすれば、それはどんな状況にも対処しうる無限の可能性の最初の一歩であるとも言えるだろう。数字に表される経済的価値や性能値だけでは、こんな財産はどこかに置き忘れられてしまう。そういうことには、それなりに配慮してきたつもりのヤガミではあるが、楽しむという指標については、これまですっぽりと抜け落ちてきてしまった方向性かもしれない。
遊びのネタという入り口から考えながら、結局は火星経済の方向性へと取り止めなく思考が流れていくのに任せていたヤガミは、はるかの顔が肩口まで、つまりは自分の顔に近付いていることにふと気が付いて、はたと我に返った。はるかの腕に頬を押しつけている自分の顔は、彼女の側からは良く見えないだろうと思われたが、それでも顔を覗き込もうとしているらしきその動きに、ヤガミは思わず息を飲んで身体を硬直させた。
「……えっと、ヤガミ、もしかして酔っぱらってるの?」
躊躇いがちの柔らかい口調ではあったが、そのあまりの内容に、ヤガミは緊張して損をしたとばかりに、ため息を吐き出しながら、ぼそりと答えた。
「…仕事が終わって、ここへ直行してきたんだ。わざわざ酔っぱらってくるほど非常識ではないつもりだが。」
「うーんと、た、たまには、なのよね?」
「……迷惑なら、もうしないがね。」
「んー、そうじゃなくてですね……。」
まるで意を決するかのように、今度ははるかが何かに緊張している気配が伝わってくる。不審に眉をひそめたヤガミが、仕方なく身を起こそうとした、その瞬間だった。はるかの身体がふわりと浮き上がって、寄りかかっていたヤガミの顔を支点にするかのように、ぐるりと回転した。細い腕が目にもとまらぬ早業で首に巻き付いて支えたかと思うと、鳥の翼のように宙を泳いだはるかの身体がヤガミの上に覆い被さったのだ。ソファとはるかとの間に挟まれるような格好で、自分がはるかの胸に抱きしめられているのだと、大変間の抜けたタイミングで気が付いたヤガミは、今更のように、先程の倍の勢いで身体を硬直させる羽目になった。
「…た、たまにだから。たびたびじゃ困るので、ほんとーにたまにだからね……。」
ぼそぼそと言い訳するはるかの声が、音であるよりも先に、その身体を通した振動として自分に伝わってくるのを確かめながら、ヤガミはやがて我に返って、改めて自分の腕を伸ばし、はるかの身体を抱きしめ返していた。
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