しるしの杉玉
「……別に、青くなったりしてないぞ。」
「はいはい。まあとにかく、無闇に外野が心配してもしょうがないわよ。何が嬉しくて何に腹を立てるか、そういうのも、それぞれの間にそれなりの理由があるでしょ。」
「…そういうものかな。」
小さな声で呟きながら、ヤガミは逸らしていた視線をそっと戻して、眼の端でちらりとはるかの様子を盗み見た。はるかはまだ、ソファの背に身体を預けたくつろいだ姿勢のまま、気だるい仕草でティーカップを口元へ運んでいる。それを見て始めて気が付いたヤガミは、自分のために用意された紅茶へと、慌てて手を伸ばした。
最近のRB改良プロジェクトに対するエノラとタキガワの頑張りを、技術的サポートも含めて最も身近で観察して来たのはもちろんヤガミだろうが、それだけに限らず、彼らの境遇についての複雑な事情もやはり、誰よりも詳しいことは間違いない。そのヤガミにとっては、表面に見えている単純な当人二人の間の人間関係よりも、現実はもっと複雑で重いものであるという印象は、やはり動かし難いものがあった。夜明けの船の誰もが、自分の過去の重圧感を背負ってこの艦へと乗り込んでいたが、それは普段、日常の水面下に押し込められてはっきりとは見えて来ない。人と人とが深く関わり合おうとするその時に、そんな影が急に立ち上がって姿をあらわにするかのようだ。
ぼんやりとそんな事を考えていたヤガミは、ふと思い至って、もう一度ゆっくりとはるかの方を振り返った。ヤガミはこの夜明けの船のクルー全員について、そんな背後の闇を事実上詳細に把握している。むしろ、そんな背景を持っているからこそここへと辿り着き、またここへ来るより他には生きる術がなかった、そんな因果の全てをである。だが、しかし。はるかの過去についての情報は、完全な空白でしかなかった。この夜明けの船の中で、たったひとり、はるかだけが。
せっかく手にしたティーカップに形ばかり口をつけただけで、ヤガミはそれをそっともう一度テーブルへと返した。そして、様子を伺いながら慎重に身体を滑らせて、はるかの肩へと覆かぶさるように隙間なく身を寄せてみた。唐突なヤガミの行動に、はるかが驚いたように眼を見張って振り返る。それでもなおはるかが逃げないのを、半ば固唾を呑むようにして確認したヤガミは、そのまま黙ってはるかの顔を覗き込んで、彼女の反応を待ってみた。
「…ヤガミ? どうしたの?」
「……いや、なんでもない。」
「んー、なんか、近いんですけど。」
「たまには、いいだろう。」
「え、えっと、そういう問題?」
微妙に頬を紅潮させて、反射的に後ずさりしてしまいそうな自分に待ったをかけているかのように、何処か緊張した雰囲気のはるかを、ヤガミはそのまま見つめ続けた。そんなことで、はるかについての空白を埋めることが出来るはずも無かったが、それでも、ほんの少しでもその空白に乾いた領域を、潤す何かが欲しかったのだ。まるで無言のプレッシャーを掛けるかのように、至近距離から観察し続けるヤガミに、こちらは負けじと張り合っているつもりなのか、はるかは両手で包み込んだティーカップに顔を埋めている。意地を張る子供のようなその仕草に、ヤガミは思わず何の気負いも無い柔らかな笑みを、その口元に浮かび上がらせた。
そんなヤガミの様子をちらちらと伺いつつ、視線を彷徨わせていたはるかは、やがて我慢し切れなくなったのか、赤みの増した頬を膨らませつつ、憮然とした声を上げた。
「…な、なに笑ってるのよ。」
「いや、別に。」
「なんか、ちょっと、やっぱり変よ。ひとりでそんなにやけちゃって、狡いじゃないの。だいたいそんな、上から見下ろすみたいなのがねー。」
それでも意地になって自分からは身体を引かないはるかは、こちらもヤガミの顔を至近距離から覗き込む形になっていたが、なおその手の中には、ティーカップがまるで命綱であるかのように握られたままである。とはいえ、その中がほとんど空になっているのを見て取ったヤガミは、今度は素早く身体を後ろへと滑らせながら斜めに倒れ込むようにして、はるかの肩へと自分の頬を擦り寄せた。
「ちょ、ちょっと、危ないでしょ、まだ紅茶がね、」
「…これで低くなった。文句無いだろう。」
「や、ヤガミ? 変なものでも食べたの?」
「……いいじゃないか、甘えているだけだ。」
「は、はい?」
「タキガワに先を越される前に、プラネタリウムへ行っておくんだったな。あそこには、面白いものがあるんだ。」
「ええと、待ってよ、その前になんか妙なことを口走ってなかった?」
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