ぶんかの日
惑星表面のほとんどが水に覆われた火星という星は、通常の環境改造のセオリーとは、大きく異なる発展を遂げた星でもあった。一般的な惑星開発の目玉と言えば、何と言っても豊かな鉱物資源をおいて他にはない。未だ誰のものでもない手付かずの資源を追い求め、地球を船出することを夢見たかつての宇宙開発計画の歴史が、それを物語っている。現在のこの都市船建造の礎となったかつての火星のふたつの月、あっと言う間に食らい尽くされて姿を消したデイモスとフォボスの恐怖の兄弟のように、火星もまたこの無尽蔵の水の登場という予想外の助け手を得なければ、今頃は掘り尽くされた穴だらけの顔を晒すことになっていたのかもしれないのだ。
戦争特需の波に乗り、この水資源を反物質推進の燃料として供給することによって、火星の各都市船には一気に大量の資金が流れ込み、これによって惑星開発の初期に頻発する様々な問題を解決しながら、火星の都市船は歴史を歩んで来た。そして、その水の恩恵に頼り切ったまま脆弱な経済を構築してきた火星の都市船は、今、戦争の追い風を失って、構造不況という出口の見えない薄い闇の中を手探りで進んでいるような状態だった。
そんな世相を反映してか、このところ火星の娯楽施設は、何処の都市船でも同じようにいまひとつ賑わいを欠いていた。それでなくともプラネタリウムなどの伝統的な映像音響技術は、巨費を投じて大型装置を建造していた華やかなりし時代を通り過ぎて、エノラがふともらした通り、誰もが遊びに行くような流行のスポットというよりは、子供向けの教育施設の意味合いがメインとなりつつあった。ショッピングセンターなどの人気店舗が軒を連ね、人々がごった返す大型複合ビルの中を、取り留めなくおしゃべりを続けながら抜けて行った二人だったが、その最上階に設えられたプラネタリウムの場所へと向かうにつれて、周囲の人影は徐々に疎らな状況になっていった。
その辺りの状況はもちろん分かっていたタキガワだったが、入り口をくぐって中に入り、予想よりもさらに閑散としたプラネタリウムの施設内を目にして、思わずぐっと詰まったような表情になった。そして、ちらとエノラの方を盗み見た。エノラの方はと言えば、周囲の寂しい状況をさして気にするでもなく、しげしげとパンフレットの解説を読み耽っている。図らずもはるかとヤガミと、そしてエノラにまでも聞かれてしまった気持ちは、一片の曇りもなくタキガワの本心であり、誰に何を言われようともエノラを誘ったことを後悔するつもりはないのだと断言出来るが、だがしかし、当のエノラ本人にどう思われるのかだけは、別の話である。
運命の宣告を待つような神妙な顔付きでそっと自分の表情を伺っているタキガワに気が付いて、エノラはにこりと明るく笑って見せた。
「最近はやっぱり、あんまり人気ないのかな。」
「あ、や、やっぱそうなんだよな。えっと、別のとこにするなら…。」
普通なら多少言い辛いような内容でも、きっぱりと、尚且つ屈託なく言ってしまえるところが、エノラの得意技でもあるだろう。慌てて取り繕う言葉を探し始めたタキガワだったが、エノラはそれを制して、さらに明るい声ではきはきと答えた。
「ううん、だって私も見たかったんだから。他のお客様が少ないなら、ゆったり見られて、かえっていいかも。それにね」
エノラはするりと近寄ってくると、まるで悪戯を告白するかのようにやや潜めた声音で、タキガワの耳元に素早く囁いた。
「これぐらい空いてたら、ちょっと声が出ちゃっても怒られないでしょ。」
「こ、こえ?」
「だって、楽しい時に黙ってるの、苦手なんだもん。」
そう言ってエノラは、ほんの瞬間ぺろりと舌を出して、もう一度にこりと笑みを深めた。そしてそのままタキガワを残して、選びたい放題に並んだ空席を矯めつ眇めつ検分しながら、さっさと席を選び始めた。
後に取り残されたようなタキガワは、エノラが厳選した上に席を決め、子供のようににこにこしながら手招きをするに至るまで、ぼうっとそのままそこに立ち竦んでいた。まるで先程の言葉通りに、賑やかな声を上げてエノラに呼び寄せられ、辛うじてぎくしゃくと歩き始めた程である。急かされるがままにシートに腰を下ろしたタキガワに、エノラはいつの間にやら調達したポップコーンの袋を押し付けた。
「はい、タッキー。何か飲み物も買っておく? コーラとかがいいかな。」
「あ、そ、そっか、わりぃ、気が付かなくて。」
「えー、そんな気を使わなくたって大丈夫よ。色々眺めるのが楽しいんだから。」
「…そうかもな。新しいメニューとか出てると、味見してみたくなったりして。」
「そう、そうでしょ? あ、急がないと始まっちゃう。」
明るく響くその言葉通りに、あれこれと売り子に確認して買い物を楽しんだ挙句に、予告のブザーの鳴り響く中ばたばたと戻ってきたエノラは、会場の照明が落とされ、見上げた天井一面に星が光り輝くのを見上げて、先程の言葉通りに子供のように歓声を上げた。今はもう、こんな幻の中にしか存在しない美しい地球の夜空から始まった映像と音楽は、やがてその地表をふわりと羽ばたいて飛び立ち、星の海へと渡る航海に出発する。
先程までの賑やかさは何処へやら、時折驚きの声を挟みながらも、食い入るように真剣にその星空を見つめているエノラの横顔を、タキガワは口元に微かな笑みを刻んだまま、そっと見守り続けていた。世間と呼ばれるような他者の評価と、自分の価値観とのギャップは、いつでも確かに存在している。こんな風に心の底から架空の宇宙旅行を楽しむことが出来るエノラがいるかと思えば、余りに星の海を永く彷徨い続けたが為に、恐らくはそれを映像として楽しむなどということは思いもつかないであろう、エステルのような想いも存在しているのだ。
そのどちらが、良いとか悪いとかいうことではない。ただそれは、違っている、それ以上の何の意味もない、単純明快な、ただの事実である。だがそのすれ違いこそが、時に悲しみを生み出すのだということ、それがタキガワにも、少しだけ分かるようになってきていた。エノラの乗り越えて来た悲しみが、一体どんな深く昏いものなのか、正直に言えば今でも、タキガワにははっきりと分かっていないのかもしれなかった。タキガワは、星明かりに照らされたエノラの横顔を、その真っ直ぐな眼差しを、息を止めるように薄闇に紛れたまま、じっと見つめ続けた。強い風に吹かれてそれに傷付きながら、彼女はそれでも、その風に向かって真っ直ぐに立ち向かい、一歩を踏み出すことを止めないだろう。彼女は、吹き付けるその冷たい風を乗り越えて、なお想いを分かち合うことを、知っている者だからだ。
真っ直ぐなエノラのその眼差しに、まるで寄り添おうとするかのように、タキガワもまた彼女の見上げるその星空へゆっくりと視線を移した。そこには造りものの天を覆い尽くす、巨大な渦巻き銀河の青白い光が、けぶるように淡く尾を引きながら、緩やかに廻り続けていた。
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