秋吉台山焼き
ちょうどその頃、奇妙にあちこちで連続する調理器具のトラブルをようやく片付けた岩神は、えるむの待つ体験コーナーへと帰り道を急いでいた。発電機や簡易式の移動ガスコンロと聞いて、大した手間暇でもなく直ぐに戻れるつもりで出掛けてきたのだが、とんだ計算違いである。一つ一つの故障としては、接触不良やプラグの汚れというような、それこそ岩神にとっては一瞬で原因を見抜けるような単純な代物ばかりでしかないのだが、それでも数がまとまれば、それなりの時間を取られるのは致し方ないというところだろう。足早に道を進みながら、こんな単純な整備不良ばかり相手にするのなら、それなりに取り組み甲斐がある複雑な故障の方がまだ格好も付くのにと、岩神は八つ当たり紛いにそんなことを考えた。
コーナーに戻っても、炊き出しそのものについてでは、岩神に手伝いが出来るようなことは大してないのだが、今回は子供向けの保存食調理の実演と聞いて、イースト菌発酵やペクチンによる凝固など、理科的な実験の要素を取り込んだらと進言したのは、他ならぬ彼自身であった。白状してしまえば、えるむと一緒にボランティアに参加するのなら、自分の得意な分野で良いところを見せたかったというのも正直なところである。だが、肝心の現場にいることも出来ないまま、出先でいくら役に立ったと言っても、えるむの顔も見えないところをたらい回しにされているようでは、本末転倒もいいところだった。
おまけに、どうも今日は、朝からしきりに視界の片隅で、青い影がちらちらと散らつくような気がして、それが不機嫌に余計拍車を掛ける形になっていた。慢性的な疲れ目の自覚はあるが、とうとうここまで症状が進んだか、それにしても色鮮やかな飛蚊症というのも変なんだがと、例によって無闇に専門性の煮詰まったような思考を弄びながら、岩神がせかせかと道を曲がろうとしたその時だった。
またしても、余りに鮮やかに青く光る何かが、視界の片隅を素早く横切った。まるですばしこい小動物か何かが、視野の隅を駆け抜けた残像のようなその光は、はっきりと見ようとするたびにするりと逃げてしまうあたり、まるで意図的に神経を逆撫でされているような不快感がある。反射的にむっと唇を引き結んで、いきなりその場に立ち止まった岩神は、その光に対して抗議を叩きつけるようにして、それが走り去った方向へとぎろりと目を向けた。そして、予想外の光景を目にして、はたと息を飲んだ。
目の錯覚であろうと当人も思い込んでいたその青い影が、何と視界のど真ん中で揺らめいたのである。ふさふさとした何かの尻尾のようにも見えるそれは、しかし次の瞬間、再び視界の端までしゅんと走り抜けた。どう考えても、生き物が走れるような速度ではなかった。だが、余りにも生き物めいたその挙動に、岩神はそのまま青い何ものかを視線で追跡した。こんな風に急激に視界を移動させれば、本当に見えているものなのか、それとも目の錯覚でしかないのかの区別が付いてくる筈である。人々の行き交う雑踏の片隅で、にわか作りの屋台の足元を走り過ぎたそれは、その速度を除けば間違いなく現実の物体が移動しているリアルさをもって、岩神の視界を移動し続けた。
岩神の視線が辛うじて追跡するその先で、小さめのリスのように、しかし凄まじい速度と身軽さを見せつけて、それは視界のぎりぎりを走り抜け、風のように素早く屋台のひとつへと駆け込んだ。立ち止まっていた岩神は、慌ててその屋台へと近付いて、その青い光を見失わないよう追いかけ続けた。小麦粉の生地を油で揚げる、最近話題のドーナツというスナック菓子の店らしく、甘くいい匂いがあたりに充満している。青い何ものかは、ごった返す人々の足元を駆け抜け、店の隣に少しだけ空間の開けた、荷物置き場のようなところへと駆け込むと、くいと直角に曲がって見せた。人込みをかき分け、地面だけを見て進んでいた岩神は、その空き地へと足を踏み込んだ瞬間、はっとして顔を上げた。
目の前には青い光ではなく、白い髪の若い男が立っていた。反射的にその顔を覗き込もうとした岩神から顔を背けながら、半ば岩神にぶつかるようにして男はすれ違い、そのまま通り過ぎた。頭ひとつ分ほど背の低い相手に対して、何かの違和感を感じた岩神は、その場にもう一度立ち止まると、眉根を寄せてその原因を自分の頭の中をかき回して探し出した。脳裏には、白い髪の友人の姿が浮かび上がる。ひとりの北国人を付き合いの長い友人に持ち、また遺伝形質関連を専門とする岩神は、北国人の容姿の特徴についてもそれなりの知識を持っていた。そのはっきりと白い髪に反し、すれ違った男の肌は、不自然に白くなさ過ぎた。
はっとして背後を振り返ろうとした岩神は、だが、目前にもう一度青い光が散らついたのを見て、そのまま前方に目を凝らした。ドーナツを揚げる店の人々が、慌ただしく働いているその合間に、まるでそこだけ違う何かを嵌め込んだかのように、鮮やかに青く光りを放つものがいる。ぱちぱちと小気味の良い揚げ物の音を響かせつつ、油の煮えたぎった鍋の横で、小さなリスのような生き物が、まるで質の悪い冗談のようにちょこんと座っているように見えた。ちょうど何かの合図に合わせたかのように、調理の人影がその光から追い払われて遠のいた。目を丸くして凝視する岩神に向かって、その青い獣は、鋭い牙をずらりと見せつけながら、にやりと凶悪に笑って見せた。
次の瞬間、その笑顔が引き金を引いたかのように、ドーナツを揚げていた筈の鍋の中から、勢いよく炎が吹き上がった。それに続いて、腹に響くような低い爆発音が鳴り響く。顔に吹き寄せて来た熱と衝撃とを、反射的に肩を向けて防いだ岩神は、その炎を挟んだ向こう側で、店の客たちから遅れた悲鳴が響くのを聞いてはたと我に返った。警戒しつつも顔を上げたその先では、未だ油の鍋が勢いよく燃え上がっている。が、つい先程までその直ぐ側で立ち働いていた人々は、狭い店の中としては奇跡的なタイミングで、燃え上がる炎から距離を置いているのを確認して、岩神は思わずほっと安堵の息を吐き出した。
慌てふためくその人々が、それでも辛うじて火を消そうと動き始めたのに気が付き、実験系の事故に場慣れしている岩神は、役に立つものはないかと周囲を見回しながら、慎重に燃え上がる鍋へと足を進めようとした。その耳にふと、水は何処だと叫ぶ声が聞こえて、岩神は大慌てで、それを上回る声で怒鳴り返した。
「馬鹿野郎、鍋の油に水を掛ける奴があるか!! 何かを被せて酸素を遮断するんだ。その辺のテーブルクロスでもテントでも引き剥がせ!」
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