旅の日
掛け値なしの緊急事態に巻き込まれたにもかかわらず、とてもそうは見えないマイペースぶりを保っている一同ではあったが、それでも内心では、誰もがやはりプレッシャーを感じていたのも、紛れも無い事実なのだろう。ヤガミの宣言がテントの中に低く響き渡ると、子供達が互いに視線を交わして表情を緩めただけでなく、王島もまた、無意識に力が入っていたらしい肩をほっと休め、がっちりと組んでいた長い腕を解いて姿勢を崩した。何とは無しに一群に固まっていた女の子達が、力作ぞろいの展示に目を向けてばらばらに動き始めると、それに付き添っていたはるかが、ちらりとヤガミを振り返り、くいと一瞬だけ唇の端を吊り上げて、猫のようないつもの笑みを見せた。
実際のところを言えば、爆発音やコースケ達が見付けた大人の悪戯、そして白い煙幕らしきものと、これらがどんな代物であるのかがはっきりとはしていない以上、危険性が薄らいだ訳という訳ではなかった。しかし、そう長時間の緊張を保つことは出来ないのが、人間というものである。いざという時に適度な緊張感をもって反応速度を引き上げたいと考えるなら、その前にはきちんと気持ちを休憩させる緩急も必要になるだろう。そして成り行きとは言え、この避難グループのリーダーに抜擢されてしまっているヤガミとしては、反対にその分、自らの気持ちを引き締める覚悟があるとでも言うかのように、微かに口元を強ばらせた。
特に子供達の場合、過度の緊張を強いれば、パニックに陥ってしまったり、逆に逃避状態からいきなり眠り込んでしまったりすることも有り得る。ここまでの経過を考えても、そんな状態にならなかった事の方が、むしろ子供達の頑張りであると言えるかもしれなかった。外からの救援と言ってはみたものの、恐らく今この瞬間に、正面の出入り口に殺到しているであろう見物客の避難が最優先になるのは、間違いない筈である。自力で内側から脱出口を開く必要性があるのなら、子供達も含めた総力戦で事に当たらなければならないだろう。気持ちが先に空回りしてしまったら、最大の作業能率を要求することなど、とても望めない。
ヤガミは、女の子達に手を引かれて展示パネルの見学に回り始めた、はるかの後ろ姿にさりげなく目を向けながら、この場所に、彼女が加わっているということの意味の大きさを考えた。夜明けの船もまたそうだった。ひとつの事象に巻き込まれた人々の、その真のポテンシャルを解放しなければ、打破出来ないような難問へと立ち向かうその場所に、彼女のような存在が紛れ込んでいる。もしくは、彼女がそこにいるからこそ、その存在の重みが事象の歪みを造って人々を引き寄せ、その集積の密度をもって立ち塞がる壁を打ち破って行くのではないかと、ヤガミはふとそんなことを考えた。
その時、微妙に自分の思考に沈みかけていたヤガミの傍らで、その意識を現状へと引き戻す声が響いた。
「えっと、ヤガミさん、あの…。」
「なにぼっとしてんだよ、ヤガミー。」
如何に思考の内側に籠もりかけていたとはいえ、あまりに至近距離で響いたその声に、ヤガミは慌てて視線を下げた。そんな狼狽えぶりに、逆に驚いたかのような表情で、いつの間にか直ぐ側まで接近していたジェドとコースケとが、揃ってヤガミを見上げている。右手に移動しつつあるはるかの後ろ姿を目の端で追っていたせいで、左から近付いた彼らに気が付かなかったのだと思い至ったヤガミに、まんまと追い打ちをかけるように、コースケの顔がにやりと笑みを作った。
「あ、そっか、またはるかちゃんに見惚れてたんだな、そっかー。」
「うーん、コースケって、ホント時々鋭いよな。」
「なんだよー、時々ってー。」
大きな一仕事を終えた満足感からか、機嫌の良さそうな明るい二人の声を聞きながら、ヤガミはわざとらしく咳払いを挟んで、無愛想な声でぼそりと呟いた。
「…二人して雁首揃えて、どうした。」
「がんくびって、なに?」
「……あー、この世界にキセルは無いかもしれないな。ガンという鳥は分かるか。」
「うーん、分かんねー。ガンて鳥がいるんだ」
「えっと、じゃあニワトリが揃って餌箱に首突っ込んでるような感じかな?」
「えー、それ、がつがつしてるってことかよ。まー、おれ、鳥好きだからいいけどさー。それより、ヤガミに展示見て欲しいって、ジェドが。」
「何だよ、それ、ヤガミさん呼んで来ようって言い出したのは、コースケの方じゃないか。」
「だってさ、ジェドが考え事の邪魔したら悪いとか言ってっからさー。」
「…ああ、分かった分かった。二人とも、案内してくれるか。」
「やった、そうこなくっちゃ!」
「うん、もちろん! 何か変な事件に巻き込まれちゃったけど、やっぱ展示を見てもらわないとね。」
賑やかな二人のペースに巻き込まれたように、無愛想を装うのにやや失敗したヤガミの返答を聞いて、コースケとジェドは、一層舞い上がったような歓声を上げた。そして、ヤガミの身体を押したり引いたりとまとわり付きながら、左手の展示作品へと誘導していった。これまで見てきた展示に比べれば、かなり大きな面積に広げられた、なかなかの大作である。子供達の手作り感にあふれているところはあっても、大きくしかも精密に書き込まれた分布図や、きちんと分類を押さえた解説など、内容的には非常に充実した構成となっている。これを指導したタウロ先生という人物は、間違いなく、植物学の専門的な表現手法に精通しているのだろうと内心でヤガミは思った。
「…じゃあ、解説はジェドに頼むか。」
「そうそう、ジェドそういうの、すげー得意なんだぜ。算数の説明とか、さや先生より上手かったりするもんな!」
「え、そんなことないけどさ、この展示のまとめは、一応俺がリーダーだったし…。」
コースケの至ってストレートな誉め言葉に、微妙に顔を赤らめながらも、ジェドは表情を引き締めつつ作品の前に立って、しっかりと背筋を伸ばした。その口調もまた、大人に気を使った丁寧さとは一味違う、自分の気持ちを伝えようとする意志の強さを秘めていることに、ヤガミは気が付いた。互いの年齢はどうあれ、本気には本気で向かい合うのが礼儀だろう。ジェドの本気に敬意を表するかのように、ヤガミもまた同じく背筋を伸ばした。
「…今回の研究の目的は、僕達の一番身近にある、山野草の分布調査です。その中でも特に、普段僕達が目にしている植物の中から、段々数が少なくなっていると考えられる種類の山野草に着目して、調査を行うことにしました。そこでまず僕達は、両親や農家の方からの聞き取り調査を行って、昔は良く見かけたのに、最近では目にする機会が少なくなった植物を探すことから始めました…。」
予め発表原稿として考えられているものらしい、行儀の良さそうなジェドの”台詞”を聞きながら、ヤガミは苦労して頬に浮かびそうになる笑みを引き締めて、しかめ面しい固い表情を維持していた。それにしても山野草のレッドデータ調査とは、こういった展示向けとしては大変渋いテーマではあるかもしれないが、同時に子供達の研究展示としては、打ってつけの内容であるとも言えるかもしれない。しかも、単純に分布を調べて図にするだけではなく、様々な調査手法を取り入れて、子供達の特性を十二分に生かしたフィールドワークの構成が練られている。これは確かに、農業博覧会の展示作品募集として集められた中でも、かなりレベルの高い仕上がりになるのだろうとヤガミは考えた。
ジェドの解説にしても、何度も言葉の推敲を繰り返し、きちんと内容を伝えられるように充分練習したのであろう工夫の様子を伺うことが出来た。これを聞けば、コースケの言葉が別にお世辞という訳ではなく、ジェドの実力をきちんと評価しての言葉であることがよく分かる。最もコースケが、例え親友に対してであろうとも、お世辞などという空っぽな言葉を吹聴出来るような器用さを持ち合わせているとは、到底思えなかったが。
「……今回の研究調査の中では、何が一番難しかった。」
流れるように続くジェドの解説が、よく練られた原稿的な固い構成を取りながらも、単純に記憶している文面を暗誦しているだけという訳ではなく、聞き手の表情をちらちらと確認しながら、その反応に呼吸を合わせようとしているのを見て取ったヤガミは、悪戯心を抑えきれずに、不意に質問を切り込んでみた。ジェドは少し目を見張って言葉を切ると、問い掛けるような視線をコースケへと向けながら、それでも体して焦った様子もなく、きちんと自分の言葉を探し出した。
「…一番難しかったのは、やっぱり、昔はあったのに最近見ない植物を探して回ったところかな。色んな人から情報集めて、この辺にありそうってところを探したけど、どうしても見付からないのとかもあったから。な、コースケ。」
「そうそう、やっぱさ、こんなきれいな花が咲いてとか言われると、見付かんないと寂しいじゃん。ちょっと意地になって探した奴とかもあったよな。」
「この白くて小さい花とかは、そうやってやっと見付けたのなんだ。あの時は、メイちゃんがいつの間にか見付けて来たんだっけ。」
「あー、そんなこともあった。あの辺りみんなで何度も見て回った筈なのに、結局見付けたのあいつだけだったんだよな。今日は来られなくって、ジェドはちょっと残念だったよなー。」
「…え、そ、そんな俺が残念ていうかさ、やっぱみんなで調査したんだから、せっかくきちんと展示してもらったところは、見て欲しいじゃんか。」
先程とはまるで違う、分かりやすく耳まで一瞬で真っ赤に染まったジェドの顔を見ながら、ヤガミは自制心を総動員して、反射的に浮かび上がった笑みを唇の端を歪めるだけに押し込めた。今の今まで、堂々たる解説者ぶりを発揮していたジェドは、うろうろと視線を彷徨わせながら、ヤガミの反応を伺っている。不用意な名前を自分から口にしてしまった辺りは、やや緊張が緩んだ隙に、思わず口から出てしまったというところであるのだろう。それをすかさず蹴飛ばして、にやにやと満面の笑みを浮かべているコースケに向かって、むっと唇を尖らせたジェドは反撃の言葉を見つけ出した。
「…そういうコースケだって、リコちゃんあんなに来たがってたんだから、一緒に連れてきて上げたら良かったじゃないか。」
「え、だって、あいつ歩くの遅いしさ、ちょっと目を離すと直ぐにどっかいなくなるし…つーか、そんなこと関係ないじゃん。」
「調査の時だって一日分の歩く距離とか考えて、今日はダメだけど明日はいいとか、一所懸命計画練ってたくせに。今日だって、お留守番だからお土産にジャムなんだろ。」
「だ、だから、かんけーないって!」
「…あー、なるほど。そういう裏の苦労もあったということは、よーく分かった。」
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