印章の日
ヤガミと王島とが話し込んでいる短い間に、辛うじて残っていた一部のテント幕を素早く切り裂いて、柊星達は順路の完全な分断を完了させてしまっていた。炎に炙られて痛んでいたとはいえ、それなりの強度を持つ居住用テントの素材を、にわか拵えの道具としては驚く程の速度で、思い通りに切り刻んだ見事な手際である。しかし、一生に一度巡り合えるかどうかというような文字通りの大物が、折角目前に姿を現したにも関わらず、ろくに事態の把握もままならないでいる内に、あっという間に逃げられてしまった腹立ち紛れの柊星は、それでも暴れ足りないらしく、外の光がこぼれて来る亀裂をさらに拡大して、そのまま脱出口が空けられそうな勢いで憂さ晴らしに動き回っていた。とはいえ、新たな空気が流れ込んだために、通路の向こう側の炎は思い出したかのように再び勢いを盛り返し、その間際を通過しようというのは、他に手段がない場合でもなければ、おいそれと挑戦出来る状態でもない。それに比べて輪切りにされたこちら側では、もうほとんど火は勢いを収め、テントの外側からのバトメ部隊の救援を待つには、十分な時間の余裕は確保出来たものと思われた。ようやくこれで一段落かと、内心ではほっと胸を撫で下ろしながらも、ヤガミは勤めて事務的な口調で、一同へと声を掛けた。
「…多少のハプニングもあったが、ここまでになれば類焼がこちら側に広がることはないだろう。一先ず、テントへ戻ろう。」
「はあ、多少、ですか。」
こちらも少しは余裕が戻ってきたらしい王島が、人好きのする屈託の無い笑顔を見せている横から、ひょいと瑞穂が口を挟んだ。
「ところで、そのハプニングはやはり、他言無用としておいた方がいいんでしょうか。」
言われてはたと気が付いた顔付きで、そのまま王島が答えを乞うかのようにヤガミの方を振り返る。瑞穂もまた、どちらかと言えばヤガミに聞いたのだとでも言わんばかりの表情で、こちらを伺っている視線を受け止めながら、ヤガミは思わず腕を組んで首を傾げた。
「…特に約束を迫られた訳ではないが、その方が面倒も少ないのは、確かだな。」
ヤガミからすれば、この世界における「うえ」なるものの存在が、どの程度の秘密に属するのかは掴みかねるところでもあった。だが正直にヤガミの基準から言うのなら、目撃者に何らかの措置を講じてでも、秘匿しておくべきレベルの情報であるのは、紛れも無い事実である。例えあの狼が秘密の漏洩に頓着しなかったとしても、この世界の他の異形の存在達も、同じように判断するのかどうかは定かではなかった。むしろ、有り体に言ってしまえば、あの青い狼が秘密を要求しなかったことの方が、「うえ」なるもの達の価値観から言えば、作法に外れた振る舞いと言えるだろう。
「ガキ共が黙ってやがったんだから、俺達も黙ってたっていいじゃねーか。」
「柊星、何もそんなことでまで、しかも子供と張り合わなくても。大体、子供達が約束したという相手と同じかどうかも分からないんだし。」
「るせーな、あんな奇妙な技を操る奴が、一度に何種類も現れてたまるか。つーか、うっかり変な情報がもれて、狸おやじにでも尻尾掴まれてみろ。どうやってあの石頭を納得させるような報告書を書くんだ。」
「まあ、それは否定出来んところではあるが…。」
切れ者の上司の存在を伺わせるWD兵達のやり取りを聞きながら、ヤガミは改めて気持ちを引き締めつつ、交渉の再検討を脳内で展開していた。あの青い狼が、彼らとしては珍しく境界の厳密さに拘らないのは、恐らく、それに代わる何らかの約束事を何処かで交わしているからである。そのことに気が付いていると相手に明かすために、人に縁があるのかと投げ掛けたヤガミの問いに、彼は即座に斬り返してみせた。それがヤガミの推測の正しさを裏付けているのであれば、その絆を守る為にこそ、あの青の獣は今度こそ怒りの牙を剥くことになるのだろうと思われた。交わされもせぬものを守ろうと、その言葉をもう一度脳裏に聞きながら、口止めをしなかったことはもしかすると、彼らの判断を試すための仕掛けであるのかもしれない可能性に思い至って、ヤガミは微かに顔を引きつらせた。
「……何にせよ、触らぬ神に祟りなしとは、間違いなく真理だろう。幸い、通り一遍の説明が通用するぎりぎりの線で、辻褄は通っている筈だ。余計なことは口外しない方が、身の為だな。」
「了解しました。では、私の投擲が穴を開けた後、予想以上の速度で一気に燃焼が進んだと、そんなところでよろしいでしょうか。柊星も瑞穂も、それで問題ないな。」
「はい、了解しました。」
「面倒くさくなくてちょうどいいだろ。」
「そう言えば、土産というのは一体何のことだったんでしょうか。」
「…それは俺にも、思い当たるものが無いんだが…。」
やはり同じように、あの狼とのやり取りを思い返しているらしい王島の言葉を聞きながら、ヤガミは、あの青い狼がもしも人と縁を結んでいるのだとしたら、その条件に見合う人物は一人だけしかいないのだがと考えた。だがその推測が正しかったとしても、もしも彼らがその気になったなら、人は自分自身の体験した記憶ですら、それを覚えていることさえも難しいのである。つい先程、誰かを探してこの炎の通路へと飛び込んできた彼女の横顔を思い起こしながら、ヤガミはこっそりとため息を吐き出してから、それを置き去りにするかのように踵を返して歩き出した。
「…結果的にとは言え、子供達に助けてもらった礼は言えそうにないが、まあ、仕方が無いな。ともかく、テントへ引き上げよう。」
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