道路交通法施行記念日
「もしもーし、やしなちゃん、そちらの準備はいかがでしょーかー。」
手にした通信端末に向かって脳天気な声で呼びかけたはるかは、そのまますかさずそれを耳から離した。呆気に取られたような一瞬の間を置いて、端末からは、ぎゃんぎゃんと噛みつくやしなの声が、大きく安全距離を取った耳にも十分に聞き取れる程のボリュームでこぼれ落ちてくる。だが、特に気にした様子でもなくひとしきりの小言をやり過ごしたはるかは、幾らか声の勢いが収まったのを見計らって、平然と再び端末に向かって話し掛けた。
「えっとー、なつきちゃんが準備に入ったので、通信担当を交代しました。携帯を奪い取ったりはしていませんー。」
変なところで律儀というか、勢い任せの小言をきちんと聞き取っていたらしく、それに対して一見生真面目な回答を返しているはるかを見ながら、さすがのヤガミも、同情を禁じ得ない心持ちで小さくため息をついた。あの調子では、さらに相手の神経を逆撫でするであろうこと請け合いである。先程テントの外で見ていたやしなとは別人のようなその剣幕に、王島が信じられないものを見たと言いたげな顔で目を見張っているのも、無理からぬことだろう。長々と迷った挙げ句、はるかに端末を渡してしまった当のなつきも、辛うじて文句を飲み下したような顔をしてはるかの様子を横目で眺めながら、テントの骨組み構造について説明する瑞穂の声にも、器用に相槌を返している。
「なっちゃんが穴空け位置をレーザー銃で指示するので、それに従ってテント幕を切って下さいって。やしなちゃんが自分でやるの?」
何気ないはるかの質問を耳にして、ヤガミの傍らで驚きの表情を隠せずにいた王島が、はたと表情を改めてぴくりと聞き耳を立てた。気が付くと、たった今まで脱出口工作の打ち合わせをしていた瑞穂となつきもまた、不意に言葉を途切れさせて振り返り、とうとうだらしなく地面に寝そべってしまっていた柊星までもが、じろりとはるかに向かって視線を投げ掛けている。探るような一同の視線に囲まれていることに気が付いているのかどうか、はるかはふんふんと頷きながら、やしなの言葉に聞き入っていた。
「んー、分かったー。子供達の待避位置はさっきなっちゃんが説明していたとおり、そちらから向かって右側の側面です。そっち側が安全なら、まー後はどうでも。」
「ちょっと、はる姉ったら、なんてことを!!」
「うん、ほら、やしなちゃんの腕は信用してるから。じゃあねー。」
たまらずに口を挟んだなつきの声もそっちのけで、からからと笑い声を上げたはるかは、自分が満足してしまってもう充分だとでも言いたげに、通信をぱちりと切ってしまっている。そのまま上機嫌な顔付きで戻ってきたはるかに向かって、王島が妙に感心したような声を上げた。
「はるかさんは、やしなさんとは以前からのお知り合いなのでしょうか。」
「そうですねー、付き合いの古さだけなら、なつきちゃんよりも私の方が。」
「そうですか、ではご存じの上でこの落ち着き振りということですな。いや、さすがなつきさんのお姉様、肝が据わっていらっしゃる。」
「えっと?」
「ああ、いやいや。ともかく、子供達の安全だけは確保せんといけませんな…。」
珍しくも歯切れの悪い口調で言葉を濁しながらぺこりとヤガミに頭を下げて、王島はそそくさと身を翻し、子供達が集まっている展示作品の辺りへと歩み寄って行った。その後ろ姿をきょとんとした表情で見送っているはるかに、ヤガミは声を潜めて話し掛けた。
「…何だか様子がおかしいようだが。」
「んー? 何だろうねー。」
一方のはるかと言えば、普段恐ろしく他者の心の機微に敏感であるにも関わらず、今回は至ってのんびりと構えたままである。それがやしなに対する信頼の深さなのかと、微妙に虫の居所が悪いようなヤガミは、むすりと低い声で言葉を継いだ。
「だいたい、彼女が自分でというのはどういうことだ。工作班でも組織するんじゃないのか。」
「んーと、そろそろ外に野次馬が集まり始めてるから、速い方がいいんじゃないかって。特に広幡さんが。」
「……それは確かに賢明な判断だろうな。」
さり気なく付け加えられた最後の一言に納得しながら、ヤガミはちらりと、展示作品の下に座り込んでいる広幡に向かって横目を走らせた。既にこちら側に背を向けて、元通りの不貞寝を決め込んでいる柊星の傍らで、広幡は話し掛けようとするのも諦めたのか、ぼんやりとした表情のままテント内の光景に視線を漂わせている。それなりの名家の出であるらしい彼が、こんな騒ぎを引き起こした張本人であるなどと、ゴシップのような形で広まることは、出来るなら避けておきたいところだろう。この状況でテントから出てきたと言っても、今はまだそれが何を意味するのかを特定することは出来ないだろうが、彼を目撃する人物は出来るだけ少なく止めておくに越したことはない。しかも状況から判断すれば、彼は口封じの為に処分されるところだったというのも、間違いないものと思われた。このテントの爆発炎上が不発に終わったことを確認した場合、例の白い髪を装った男の仲間達がどう出るのか、その問題も残ったままなのである。
思わず自分の思考に没頭して黙り込んでいたヤガミの目前で、不思議そうに首を傾けながらその顔を覗き込んだはるかの髪が、さらりと揺れた。はっと我に返ったヤガミは、思ったよりもずっと近い距離から、自分を見詰めているはるかの瞳に気が付いて、慌てて頭の中から続きの言葉を拾い上げた。
「あー、急ぎたい理由はよく分かったが、一人で作業して工作班より速いと言うのは…。」
「うん、やしなちゃんなら、一人の方がずっと速いと思うな。こんなテント幕が相手だしー。」
「いや、だからその方法をだな。」
「それは見たらば分かるからー。」
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