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2011年8月 8日 (月)

算盤の日

 

 

***   夜明珠の光3   ***

 

例によって例の如く、唇の端を引き上げて猫のように笑うはるかを前に、ヤガミは瞬間、自分がどんな顔をするべきなのかが良く分からないとでも言いたげな、微妙な表情ではるかを見詰め返した。己の機嫌を損ねるべきか、それともはるかに釣られて自分も機嫌良く笑ってしまうべきなのか、いやそれも素直には認め難い、そんな心情をどれとも選択し損ねたというところなのだろう。それでもなお、自信を持って笑みを深めながら覗き込んだはるかに、ヤガミはふいと視線を逸らせて、また雑踏を分けて泳ぎ進み始めた。言ってしまえば、その反応までも予想通りのはるかは、にやにや笑いを口元に浮かべたまま、後れを取ることもなくヤガミを追って、こちらも歩みを再開した。

やがて、帝國環状線の駅舎が近付いてくると、人混みは相変わらずでも、周囲に大きく確保された広場に流れ込んだ雑踏の圧力は、徐々に緩み始めた。以前にもこの環状線駅に来たことはあるが、のどかな昼間の風景と、宵闇に辺りを覆われて沈み込んだような夜は、やはり印象が全く違っている。人影の間隔が開き始めたのを見計らって、はるかは踊るように足の運びを速めると、雑踏の代わりに闇が忍び込んだヤガミの傍らへと滑り込んだ。はるかの動きを予想していたらしきヤガミが、ちょうどのタイミングで、接近してきたはるかに向かってちらと振り返る。そのヤガミを見上げたはるかは、いったんは影に沈んだ横顔が、突然赤い光に照らし出されたのを見て、はっと前方を振り返った。人々の頭上から満ちてくる闇を押し返そうとするかのように、広場のあちこちには、大きな赤い篝火が暖かな光を放っていた。朧気な昼間の記憶を辿ると、何やら金属製のオブジェが廻っていたのではと思われる空間に、見上げる高さの炎の櫓が組み上げられているのである。眩しく明るく周囲を照らし出しては、不意にその勢いを緩め、闇が押し寄せるのを許してはまた押し戻し、波の律動のように踊る炎を見上げたはるかの、驚きの表情を覗き込んで、今度はしてやったりとばかりに、ヤガミがにやにや笑いを返してきた。

「…驚いたか。」
「な、何なの、あれ。こんな人混みの頭の上で火を焚いても、大丈夫なの?」
「問題無い、ホログラムだからな。」
「ああ、ホロなのかー。でも凄いリアルできれいー。」
「映像のオリジナルは本物の炎なのかもしれない。昼間のイベントとは別に、北方風の伝統的な収穫祭の火祭りもあるらしい。合併以前の国の風習なんだろう。」
珍しくも満足げな笑みを口元に刻んだままのヤガミの横顔を見上げ、炎のオブジェの創る光と闇とが、交互にその表情を染めているのを眺めてしまったはるかは、ふと何かに胸を突かれて息を飲んだ。こんな風に、明るく穏やかな笑みを浮かべているのも、そしてまた、深く暗い闇を心の内に秘めているのも、どちらも確かにヤガミの表情だと思ってしまったのだ。はるかは反射的に腕を伸ばすと、気配の無いさり気ない動きでそれをヤガミの腕に絡みつかせた。前触れの無いはるかの行動に、さすがに驚いたかのような表情で、改めてヤガミが振り返る。はるかは、しっかりとした息を自分の内に満たしてから、にこりと笑みを浮かべて言葉を返した。

「ヤガミって、そういう情報を一体どうやって調べるのよ。」
「……ああ、まあ、色々だな。」
「ふーん、ニュースソースは秘密って奴?」
「そういう場合もあるが…。この程度の観光情報なら、調べる方法はいくらでもあるんじゃないのか。」
微妙な雰囲気の違いに気が付いているのか、ヤガミは少し不思議そうな顔で、はるかの様子を伺っている。高く掲げられた篝火の傍らを通り過ぎ、環状線の駅舎が近付いて、人工的な安定した照明がその表情を照らし出したのを確認したはるかは、こっそりと息を吐き出した。
「だって、こっちの国の情報の調べ方なんて、知らないもん。」

おどけた口調で返したはるかの言葉に、ヤガミははたと気が付いたような顔で、目を見開いた。実際、何処をどう移動すればこの場所に辿り着けるのかを、ヤガミに教えてもらい、その通りに遊びに来たりすることはあっても、それが何を意味するのかということに、はるかは頓着したことが無かった。あまりにもはるかが自然にそれを受け入れてしまっている為、ヤガミとしても、わざわざ改めて説明をすることもせずにここまで来てしまったのだが、事細かな仕組みの解説を求められても、簡単には喋れないような内容のものもあるのだろう。正直に白状するのなら、はるかは、七つの世界の様々な法則について、論理的体系的な知識をほとんど持ってはいなかった。はるかにとって重要なのは、何をどうすれば自分の望みが叶えられるのかであって、その論理的なメカニズムに興味は無かったのだ。

これは少し困ったと言いたげな顔のヤガミと並んで、大きく開いた環状線駅の扉を潜り抜けると、高い天井から降り注ぐ影の無い明るい光が、人々の姿を包み込んだ。これまで以上に様々な服装と人種が入り交じった光景の頭上に、ホログラムらしき各種の表示が浮かび上がっている。ほぼ無意識のままなのか、機械的にチケットを取り出して行先案内と見比べているヤガミに、ちらりと視線を走らせてから、微かに眉根を寄せたその表情には気が付かなかったかのような明るい声で、はるかは言葉を続けた。
「知らないままで来て、びっくりするのも、面白いけどねー。」
「……ああ、そうだな。必要なことがあるなら、俺が調べる。」
「んー、じゃあ取りあえず、どの列車に乗ればいいの?」
「あ、ああ、こっちだ。間に合って良かったな。」

あからさまにほっとしたように表情を緩めているヤガミに、行き先を委ねて歩き出しながら、はるかは駅舎内に行き交う人々へと目を向けた。昼間の博覧会場や、ここまでの街中ではほとんどお目にかかれなかったような風変わりな姿が、何人も通り過ぎてゆく。ジェドに良く似た金髪に浅黒い肌や、奇妙に耳の長い黒髪の人々は言うに及ばず、人の顔と同じ高さの、毛皮に覆われたどう見ても犬の鼻面の頭の上に、ぴんと立った犬耳がぴくぴくと動いていたり、通り過ぎてゆく女の子のスカートから、長い猫のしっぽが伸びていたりするのだ。火星の都市船でもまず見当たらないような、不思議な姿の人々を眺めて口元を綻ばせながら、はるかは傍らのヤガミを振り返って、小さな声で囁いた。
「…元々、私、地図を見て知らないところに行ったりするのは、ちょっと苦手。」
「……それで帰艦時の遅刻が多いのか。」
「ふーんだ、ヤガミも結構多いくせに。」
「あー、それは、ギリギリまで仕事をこなしているせいだ。」
「またそういう屁理屈を言う。」

ぷくりと膨れたはるかの顔を見て、ヤガミは少し慌てたらしかった。条件反射的にいつも通りの憎まれ口を返してしまったことに、今頃気が付いたのか、ヤガミは会話を巻き戻すようにして、言葉を探し出した。
「……地図を見て移動が出来ないというのは、随分と不便な話だな。」
「だって、旅行とか、あんまり行ったこと無かったんだもん。ずっと同じ処に住んでたし、田舎だから新しく遊びに行くところとかも無かったし…。」
ヤガミの指示に任せて駅舎内を進みながら、絢爛世界にも引けを取らないような、流体力学の計算から導き出された美しいフォルムが見えてきたのに気が付いて、はるかはにこりと笑みを作った。この駅が始発になるのか、それとも本当に発車間際に間に合ったところなのか、ホームには既に流線型の車両が待機している。自慢の車体を眺められるとの意図らしく、高い位置から眼下に列車を見下ろすことが出来るエスカレーターを下りながら、まるで子供のようにしきりに首を伸ばしてはるかに、ヤガミは隠すのに失敗した笑みを口元ににじませ、言葉の続きを待っていた。

「それに、私、みそっかすだったし。」
機嫌の良さそうな笑みのまま、言葉ははるかの口からこぼれ落ちた。そのあまりのさり気なさに、意味を掴みかねたらしいヤガミが、一瞬遅れて驚いた顔を向ける。そのヤガミに向かって、まるで悪戯がばれたとでもいうように、ぺろりと舌を出してみせてから、はるかは再び言葉を継いだ。
「何しろみふゆちゃんは子供の頃から神童なんて呼ばれて、一族の中でもずば抜けて賢くて何でも出来ちゃって、なっちゃんもちょっと我が侭とか言われても、やっぱり優秀だったしね。姉妹の中では、私だけ何だかふつーで、これと言って得意なこともなかったから、あんまり注目されないで、放って置かれたみたいなの。のんびり出来てちょうど良かったのかもしれないけどー。」

予想外のはるかの台詞に、微妙に固まってしまっているヤガミの手を引くようにして、はるかはエスカレーターの終わりからふわりと勢いを付け、再び軽やかに歩き始めた。
「で、何号車なの?」
「……あ、ああ、3号車だな。」
「前から3番目でいいのかなー。えっと、だからね、やしなちゃんは私の代わりなの。みふゆちゃんが、将来は自分の片腕にって探して来て、今は外部派遣で修行中みたいな感じなんだって。なっちゃんはやしなちゃんを凄く尊敬してるから、一緒にくっついて行っちゃうし、でもとっても勉強になるって言ってた。」

はるかは列車の側面に掲げられた異国の文字のプレートを繁々と眺めながら、こちらは黙りこくっているヤガミの腕を引いて、ホームを進んでいった。先程まではそれなりの密度で人波も流れていたが、この列車が目当ての乗客は少ないのか、周囲のホームに比べれば閑散とした雰囲気である。目当ての号車に辿り着き、中へと足を踏み入れる頃になって、ようやくヤガミはぽつりと口を開いた。
「……お前が普通というのは、妙な話だな。」
「えー、別にそんなに落第生という訳でもなかったもん。ふ、ふつーよ、たぶん。」
「…いや、そういう意味じゃないんだが…。」
「あれ、この車両、誰もいないのね。もしかして、貸切状態?」

示された座席の内、ちゃっかりと窓際のシートに身体を滑り込ませながら、はるかは変わらぬマイペース振りで、立ち尽くしたままのヤガミを見上げてみせた。ヤガミは何かを言おうと唇を開きかけて、結局それを思い直すと、そのままはるかの隣に腰を下ろした。ヤガミが自分の目線と同じ高さになったことにほっとしたのか、はるかはすっかり寛いだ姿勢を傾けるようにして、ヤガミの座席を覗き込んだ。
「…ヤガミがそんなに気にするなんて、思わなかった。」
「……気にしている訳じゃない。」
「ふーん。ヤガミは自分ではずけずけ言うくせに、同じ事を他の人に言われるのはむっとする質なのね。」
「……ずけずけ言うのは、そっちの方だろう。」
「誰にでも言ったりしないもん。ヤガミが言うから、言い返すだけよ。」

ヤガミは何かを言おうとして、もう一度その言葉を飲み込んだ。さすがに言い過ぎたかと、微かに首を竦めたはるかが、大人しく姿勢を戻そうと座り直す隙を突いて、隣のシートから素早くヤガミの腕が伸びた。肘掛けに置かれたはるかの手の上に、ヤガミの手が重ねられる。驚いて振り返ったはるかに、珍しくも真っ直ぐなヤガミの視線が向けられた。
「……誰にでも光ってみせることは無い。お前の価値は、俺が分かっていればいいだけのことだ。」
はるかもまた、何か言い返そうとして、その言葉を飲み込んだ。それから、少し恥ずかしそうな笑みを口元に浮かべながらも、はるかは小さな声で、今ひとつ素直では無い呟きを返した。
「…ふーん。」
「……なんだ、不満なのか。」
「火星に戻っても、聞けるのかなーと、思って。」
「も、もちろんだ。」
「んー、じゃあ、楽しみにしてる。」

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