交通信号の日
環状線のシートに身を沈めたはるかは、やはり疲れていたのか、しばらくの無言の後に静かな寝息を立て始めた。肘掛けの上のはるかの手の上に、さらに置かれたままの自分の手を取り戻すタイミングを逸していたヤガミは、その柔らかな温かさを手の中に、安らかで規則正しい呼吸の響きを聞きながら、空に視線を定めたままでその瞬間を待っていた。やがて、帝國環状線の客車の風景がぼんやりと薄らいだかと思うと、ずっと簡素で殺風景な、別の風景が浮かび上がってくる。軍所属の輸送船を改修した、火星の都市船間を結ぶ定期航路の客室を確認したヤガミは、細心の注意を払って自分の手を持ち上げると、むすりとした表情で腕を組んだ。
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目立たない地味な色合いのスーツに身を包んだヤガミは、さらに目立たないようじっと壁の花を決め込んだまま、目前を行き交う着飾った人々へ、顔見知りでも探しているかのようなさり気ない視線だけを彷徨わせていた。その視界に、かちりとした儀礼用の軍服を着込んだ犬の顔や、美しい美女の頭上に猫耳がちょこんと乗っている姿が、幾人も行き交っているというのが、どうにも緊張感を削いでいるというのは否めないところなのだが。惜しげもなく振る舞われている最高級の酒をちびちびとなめながら、不作法にならない程度に慎重に視線を移動させ、ヤガミは夜会に集う面々を物色していった。興味本位に顔触れをじろじろと眺めたり、反対に豪華な食事や酒にしか興味を示さないような不審者は、摘み出されかねない類のパーティである。自分と同じように地味な服装をした、目つきの鋭い男達が、見事に気配のないプロらしい動きで会場の其処かしこを漂うように歩いている姿を油断無く確認し、ヤガミは、何気なさを装うのに微妙に失敗したぎくしゃくとした動きで、居住まいを改めた。シンプルなデザインとはいえ、生地も仕立てもそれなりの金を掛けて揃えた衣装は、さすが着心地も良かったが、場の雰囲気にそぐわない座りの悪さまで払拭してくれる訳では無い。
成り行きで誰かと会話をしなければならなくなった場合に備え、事前に頭へと叩き込んできた資料の通り、夜会には近隣の名だたる名士が雁首を揃えていた。誰もが親しげに声を掛け合う知己であり、顔を知られていないということは、即ち新参者か給仕役かという、いわゆる社交界の集まりである。しかも、挨拶の次の瞬間には、政治問題や巨大経済プロジェクトの話題が、自分自身の主導する具体的なアクションプランとして進行している辺り、集められた人々が、単なる見た目だけの飾り物ではないということを、如実に物語っていた。こんな場所へと紛れ込む居心地の悪さは、何度体験しても慣れないものだと、例の如く口元を引き結んだ不機嫌な顔付きへと徐々に戻りつつ、ヤガミは心中で溜息をついた。場所も文化も時代も人種も、全く異なっているにも関わらず、この雰囲気は、火星マワスプと全く同質のものだった。生まれた時から恵まれた特権階級に属し、人間を遣うことが身体に染み着いた威圧感が、匂うように会場に漂っている。ふと、この場所に正に相応しい、小さくて華奢な白いドレス姿を思い浮かべてしまったヤガミは、思わず口元に皮肉な笑みをにじませた。貴族と呼ばれる支配者達の存在が、害悪ばかりとも限らないことは分かっている。だがこの重く澱んだ空気の只中に生まれ落ちて、己の矜持を曇り無く磨き上げることの出来る魂とは、実際奇跡的に稀な存在と言えるのだろう。
その時、ヤガミの物思いの隙を突くようにして、会場内の人々の間を一斉にざわめきが走り抜けた。誰もが示し合わせたように入り口へと振り返っているにも関わらず、今度は、それを無理矢理押し隠そうとする不自然な静けさが、会場内にじわりと満ちてくる。待ち人の到着を確信したヤガミは、無害を装うのを放棄し、ゆらりと壁から一歩離れて背筋を伸ばした。今夜の夜会の主催者である筈の実業家然とした初老の男が、自分より遙かに背の低いほっそりとした人影に向かって、奇妙な程に恐縮して腰を屈める姿が見えている。周囲の誰もがただ一人の人間を注視し、その歩みに従ってざわめきが移動して行く様は、まるでそこに、人々の意識を吸い寄せる渦の眼が存在しているかのようだ。その渦の密度を凝縮したような黒いドレスの姿が、人垣を分けるようにして一歩を前に進み出た。主賓の到着を人々に見せ付けようとでも言うのか、潮が引くように囲んでいた人垣が退いて、小柄な女性の姿が浮かび上がる。
長い黒髪を高く結い上げ、ほっそりとした身体の線をたどる黒いレースの、足元だけが波のようにふわりと広がって、マーメイドラインのドレスを引き立たせている。忙しなく頭を下げる主催者に向かって、優雅な仕草で会釈を返しながら、白い肌から浮かび上がるかのような赤い唇が、美しい笑みを形作るのを目撃して、さすがのヤガミも、瞬間ぞっと背筋を硬直させた。居並ぶ崇拝者達に向かって、女神のように優美な笑みを惜しげもなく振りまいているその人物が、あの人形のように無表情な顔と同一であるとは、目の当たりにしてもなお疑いたくなるのは自分の記憶の方である。その一方で、これ以上は無いという位に納得している自分を自覚しつつ、ヤガミは改めて息を吸い込んだ。あの博覧会場で出会った白いスカートの女性が、はるかがみふゆと呼ぶ彼女の姉であるというのなら、今ここに姿を見せた人物こそが、CBと呼ばれる存在なのだろう。確かに白と黒の女性の姿は、同じ名前で呼ぶには余りにも異質で有り過ぎた。
その黒い人魚の姿は、寄せる波のように周囲へと集まってくる人垣の間を、気紛れに泳ぎ渡りながら歩みを進めていた。誰もが彼女と話をしたいのだろうが、誰と会話を進めるのかは、彼女が選ぶということなのだろう。その選ばれた相手が、咳き込むように勢いよく話し出したかと思うと、彼女の短い返答をもらって有頂天に喜んでいる姿を、周囲の人垣がじっと、それでも形だけの笑みを絶やさないままで見守るさまは、端から眺めるには充分に異様な光景だった。今夜この集まりが開かれているテーマは、アドバイザーを招いての財界の顔合わせ、という触れ込みある筈だった。確かに、こういった立場の人種にとって、的確な状況判断に基づく助言とは、喉から手が出るほど欲しいものに違いないだろう。ヤガミは、手にしていたグラスをテーブルへと置き去りにすると、すっかりいつも通りに戻ってしまった不機嫌な顔付きのまま、ゆっくりと会場の奥へと進んでくる人の渦を睨み据えた。
その渦を従えるようにして進む黒いドレスの姿が、完璧にさり気ない動作で、だが少しの迷いも無く、壁際に仁王立ちになったヤガミの姿へ視線を向けた。その細い首がはるかと瓜二つの仕草で、ことりと傾けられる。思わず、吸い込んだ息を凍り付かせて硬直しているヤガミに向かって、次の瞬間、黒い人魚は滑るような歩みで、真っ直ぐにヤガミへ向かって進み始めた。居並ぶ人々の間から、不審のざわめきが泡のように立ち上り始めるのを聞きながら、ヤガミはむすりとした口元をさらに引き結んで、覚悟を決めて足元を踏み締めると、黒いドレスの到着を待ち構えた。
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