VJデー
泳ぐように滑らかな足取りで進むその足元で、黒いレースが波のように揺れているのを見るとも無しに眺めながら、ヤガミは、人魚の姿の後方にざわめいている人々を、それとなく伺ってみた。この場にいる誰一人、注目どころか存在さえ意識の外に置いていたであろうヤガミが「選ばれた」という事件は、この場に集う面々にとっては、正に想定外のアクシデントなのだろう。この手の人種は、予定調和外の出来事にも、自分よりも注目される存在が目前にいるということにも脆いところがあると、他人事のように冷静な思考を巡らせながら、ヤガミは表情を取り繕うこともせず、美しい歩みが自分のところへと到達するのを、それでも辛抱強く待っていた。
仏頂面のヤガミが大人しく待ちの姿勢に徹しているのを宥めるかのように、先程遠目に見た優美な笑みが、真っ直ぐにヤガミへと向けられる。確かにこれは、ある種の武器に違いないと深く納得しながら、ヤガミはやはり何処かはるかに似ているその笑顔に、見惚れてしまいそうな自分の手綱を、きりりと引き絞った。表情も会話もその装いも全てを引っくるめて、社交術という心理戦の戦場の歴とした武器なのである。成る程、表情筋というのも筋肉の一種だと、妙な納得をしているヤガミの目前へ、滑り込むようにしてその女神の微笑みが到着した。
「またお会い出来ました。」
「……ええ、そうですね。」
それが嬉しくてならないとでもいうように、笑みを深めるCBとは対称的に、口元を引き結んだ不機嫌な顔付きのままで、ヤガミはむすりと返事を返した。唐突な人魚の動きに虚を突かれ、静まり返っていた背後の人々は、ようやく我に返り、立ち上る本格的な不審の声が、押し殺し切れずに会場内に響き始めている。正直、CBが自分の存在に気が付いたのを確認したら、それだけでこの場から遁走しようという計画だったのだが、やはりこの相手を向こうに回して、こちらの目論見通りに事が運ぶなどということは無理だったらしい。これではまたしても脱出が面倒なのかと、逃走手段を脳内で計算し始めたヤガミを余所に、黒い人魚は、そのままするりと目前をすり抜けた。
「……?」
思わず、無言のまま怪訝な表情を向けてしまったヤガミへと、線の細い横顔が振り返る。その表情が笑みを作ることもなく、何処か表情を欠いたそっけない顔付きであることに気が付いて、ヤガミははっと息を飲んだ。
「こう騒がしいとゆっくりと話もしづらいですね。少しバルコニーで涼みませんか?」
「…いや、しかし…。」
「…盗聴防止措置済みの密談スペースです。誰にも聞かれないで話しが出来る。」
囁くように低く抑えたその声からも、まるで抜け落ちるように抑揚が無くなっていくのを確認して、ヤガミはごくりと乾いた唾を飲み込んだ。笑みの名残だけを頬に残した白い横顔の中で、まるで始めて開かれたかのような黒い瞳が、深い色合いを湛えて光を放つ。普通笑顔の女性が無表情になったと言えば、機嫌を損ねたものと解釈するのが道理というものだろう。だがヤガミは、何処かほっと肩の力を抜いている自分を自覚しながら、その昏い瞳の色を見詰め返した。
完璧に作られた微笑が武器であるのなら、その仮面を外すということは、恐らくは武装解除を意味するのだ。ヤガミの視線を受け止めて、白い横顔の頬が、ほんの微かに揺るんだ気がした。黒い人魚はそのままついと身を翻してヤガミに背を向けると、天井の高いパーティ会場を無造作に横切って、壁際に大きく開いた扉のようなサイズの窓へと進み始めた。自分が付いてくることを微塵も疑っていないらしい、自信に満ちた後ろ姿に、こちらもほんの気配だけ口元を緩めたヤガミは、挑発に乗る腹を決めると、大人しくその背を追って歩き始めた。夜会の人々はあらかた入り口方面に固まっていたため、会場内の奥まったあたりは、疏らなはぐれの人々が散らばっているだけで、足早に横断するのも難しくはない。ヤガミは、これだけの人間の注目を一心に浴びながら、それに飲まれることもなく、逆にこの有象無象の動きを読み切って、むしろ制御すらしている彼女の行動に心中で舌を巻いた。
豪奢な飾りの施された巨大な窓と分厚いカーテンとを潜り抜けると、夜のとばりと共に包むような静けさが押し寄せて、ヤガミは思わずほっと息を吐いていた。肌にちょうど心地よい、涼やかな風が吹いている。空間的物質的に遮断しているという訳ではないのなら、密談スペースだというこの場所は、雰囲気を損なうことのないよう、眼には見えない電気的な盗聴防御や、周囲に音を漏らさないカウンターノイズのような技術が導入されているのだろう。それなりのスペースが確保された出窓をも、一気に横断してしまった黒い人魚は、凝ったデザインの手すりの際まで進むと、僅かに身を捻ってヤガミを振り返った。暗いバルコニーの奥で、男女が肩を並べて手すりにもたれているなどというシチュエーションが、端からどのように見えるかを考えて、ヤガミは思わずむっとと口元を引き結んだ。だが、背中に衆人環視の視線が突き刺さっているこの状況では、確かに、唇を読まれないこの姿勢が、最後の盗聴防止を意味している。先手ばかりを取られていることに機嫌を損ねながらも、ヤガミは促された場所へ歩みを進め、指定されたその立ち位置へと足を踏み締めた。
そんなヤガミに、もうすっかり表情を削ぎ落としてしまったみふゆが、その複雑な心中をも把握済みだとでもいうような、静かな視線を向ける。みふゆの無表情な白い顔に、何処か安堵すら覚えている自分に、半ば呆れながら、ヤガミはちらりと眼を走らせただけで彼女から視線を外し、夜の中庭を意味もなく睨み付けた。
「私に、お聞きになりたいことがあるのでは?」
抑揚のない囁くような声が響いて、ヤガミは反射的に、口元を皮肉げにつり上げた。今夜この場所に集う誰もが、彼女に聞きたいことがあるのは、紛れもない事実なのだろう。それは自分も含めてのことだ。ヤガミは一瞬の沈黙の後、不機嫌を隠そうともしない言葉を投げ返した。
「…そちらこそ、俺に聞きたいことがあるだろう。」
「質問者に先に答えさせるのが、貴方方の流儀なのか。」
ヤガミのむすりとした声に一向に怯むことなく、むしろその可愛げの無さが気に入ったとでも言いたげな、微妙な柔らかさを含んだ返事が返されてくる。その声を聞いて、ヤガミはふと我に返った。改めて背筋を伸ばして慎重に首を傾け、傍らの黒い人魚の横顔を振り返る。すっかりイニシアチブを握られ、いいように動かされていることには腹も立つが、こんな手段を取らなければ、この会談が実現することがなかったのもまた、動かし難い事実である。会話の流れを取り戻す為に、ヤガミは反射的に口から出ただけの自分の言葉を、もう一度反芻してみた。彼女が聞きたいことは、恐らく、たった一つ切りである筈だった。
「……はるかは、元気でやってる。」
呟くようなヤガミの言葉に、彼女は見事な程完璧に、何の反応も示さなかった。だが、その沈黙こそがみふゆの返事であるような気がして、ヤガミはぼそぼそと言葉を継いだ。
「…戦闘が無くなって、RBの腕が鈍ってるとか言い出して、珍しく基本訓練に真面目に取り組んでるな。基本中の基本を今更再確認して、本人は喜んだり、周りに呆れられたりもしてるようだが。」
ヤガミが言葉を途切れさせ、ちらりと傍らに視線を投げ掛けても、やはりみふゆは何の反応も示さなかった。だが不思議なことに、自分の言葉が、彼女の内側に沁みて行く様が見えるような気がして、ヤガミは辛抱強く、その沈黙をかみ締めていた。やがて、暗がりに光を放つように白い細い首筋が、ゆらりと振り返った。欠片の表情もない人形のような顔立ちの中で、赤い唇が、ほんの微かな囁きを紡ぎ出した。
「…せっかく苦労して、出来損ないに育て上げたのに。」
短いその言葉に、ヤガミは息を飲んだ。それは紛れもなく、ヤガミがみふゆに訊ねたかった言葉だった。はるかは確かに気紛れなマイペースを崩すことなく、自分の価値観のみに従って行動するという点では、通り一遍の優秀な成績の枠に納まるような性格ではない。だが一方で、一度興味を持ったなら、無尽蔵とも思えるようなその学習能力の高さは、決してみそっかすと表現されるような代物ではなかった。その事実は、絢爛世界の火星において余すところ無く証明され、そしてまた、何よりやしなやなつきの、あの無言の内の信頼の高さに如実に表れている。はるかの能力は、意図的に隠されていたのだ。その理由もまた、ただ一つ切りである筈だった。
「……誰より、本人がそう信じて疑っていないくらいだからな。」
独り言のようなヤガミの言葉を聞いて、黒い人魚の口元にほんの刹那、微かな笑みが浮かび上がり、柔らかな長い吐息が、宵闇に響いたように思えた。だが、それを確認する隙を与えず、彼女は唐突に居住まいを正して、真っ直ぐにヤガミへと向き直った。その白い面に、再び、美しい微笑が浮かび上がる。息を飲んで立ち尽くすヤガミに向かって、女神は歌うような口調で言葉を継いだ。
「いずれにせよ、一度本人が選択したのなら、どんな道であろうともその責は自らが負うべきでしょう。もう、私がとやかく言う筋でも無いこと。」
その時突然、背後の夜会会場内にどっと歓声が沸き上がった。慌てて振り返ったヤガミに向かって、少しの驚きもない平然とした口調で、CBは用意されたように滑らかな解説を口にした。
「ああ、朗報が届いたようですね。これから彼らも私も忙しくなります。用件がお済みでしたら、この辺りでお引き取りになるのがよろしいかと。」
「……ああ、そうすることにしよう。」
このタイミングでパーティ会場に騒ぎが起こることも、全て織り込み済みだったということらしい。新しい情報がもたらされれば、正にアドバイザーという肩書きの彼女の出番である。或いは、その瞬間に彼女が席を外していることすら、何らかの意図を含んだものであるのかもしれない。自分の行動から逃走まで、全て彼女の計画の内だったのだと気が付いて、ヤガミは改めて、美しい女神の微笑みを睨み返した。何処まで行けば、この黒い人魚の手の平から逃れることが出来るだろうか。その剣呑なヤガミの視線を受け止めて、CBはくすりと、はるかに良く似た笑顔を作った。虚を突かれたヤガミに寄り添うような近さへ、気配もなく一歩を踏み込んで、赤い唇が囁くような言葉を呟いた。
「はるかに伝言をお願い出来ますか?」
「…承りましょう。」
掠れた声で辛うじて返答を返したヤガミを、何処か夢見るような遠い瞳で見詰めながら、彼女は口早に言葉を紡いだ。
「離宮は昔通り何一つ変わらないまま残してあるので、帰りたくなったらいつでも戻って来るようにと。」
「……了解した。」
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