きんこんかん
頑張って一人で上野の森へ行ったのは。重さと、そして音を確認したかったからだった。
好みと出処的には最初から近しいのに、逆に日本刀という文化に手を出せなかったのは、つまりはあの臭ってるのがどうにも馴染めなかったからだ。他のジャンルでもそう、江戸明治大正ぐらいまでなら、展覧会はそれなり何でも楽しめるけども、基本現代の作品には興味が無くて。美術とか芸術とか言われると、ほぼ食指が動かない。
もちろん、現代の作品にだって好きなものはたくさんあって、だから様子が分かってるジャンルは通うけども、それをひとくくりにした何とか壇みたいなのは、はっきり言って偉そうな程信用ならん。
見に行って、実際に握れるコーナーが閑散としていたところとかが、そういうことを表してるなと思わざるを得なかった。作品のファンが大半なんだから、当然ではあるんだけども、その世界に共感し、自らの技でそれを現出させようとする心意気に共感する層は、薄いんじゃないのかと思われた。
つまりは、それが今の日本の最大の弱点だ。中身が、すかすか。長き歴史の遺産は、素晴らしいけれども、何れは失われる。それらを再生産し続ける継承とは、ガラスケースに入れて有り難がってるのとは違うだろう。
でも。本物の技として地道にそれらを継いでる方々は、やはり違うな。炎の色が変わる。あの時点で、折り返しの回数が意外に少ないんで、あれと思ったら、理由は直ぐに分かった。
音も、変わる。どんなに叩いてもそこからは違いが無いことなんて、自明の理以外の何者でもない。現存技術のフィールドワークすらしてないで論文書いてる訳だな。とはいえ、私は技術者ではないので、どれが本当の正解なのかは、あまり興味もないし、やりたい人にお任せするけども。
その心は、分かったと思う。私にはもうそれで充分だ。もう二度と動かない身体の上に、その形だけが置かれている。今はもう、材質は紙だそうで。子供達が折ってくれた金銀のメダルと同じ。あれを身に付けている限り死者に厄は届かない。
じゃあ。鳴狐は、どんな声で鳴くのかな。
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