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2017年2月18日 (土)

I=D

吾は死なり

方舟が
第六への扉を開く時
その子供は
現れるのかもしれない
たくさんの死と引き換えに

その
哀しみは
苦しみは
痛みは
偽物ではない
私はそれを知っている
けれど
現在、という意味の
本物でもない
だからといって
絡繰りとして
現在が無条件に
切り捨ててもいいとは
私には云えない
つまりは
まあ
知らない方がいいこともある
知らないままに
救うことが出来るのなら
確かに
それこそが

とはいえ
大抵の場合
知らないまま程度の
あやふやな感傷で
他者を救うなど
出来ることでもないんだ
その憐憫に
一体どれくらいの自分をベット出来るのか
そういうようなこと
でなければ
この無限連鎖を止めることなど
出来よう筈も無い
だから
相似形でも
可能性は同一でも
違うものは
やっぱり
違うんだ
それが彼我の境界線
この
「線」をもって

精霊回路とは何であるのか
それが成立するのは
第四だけだ
如何なる文字で綴られようと
吾が眷属の
真名を汚染することは
私が
赦さない
沈黙の女神の御名において

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