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2018年1月29日 (月)

レポート・システム4 その壱

現状の物語原型、特にコンテンツ制作にもっぱら利用されているタイプの世界観においては、物理現象のモデルは圧倒的に現実世界に依存している。中世ファンタジーな異世界にスマホ持っていく感覚がいい例かと思われる。これが可能な物理法則の厳密な構築というのは、可能であるにしても。

物語の規模が限定的な間はまだしも、これを拡大していくと、あちこち綻びが拡大して、あらゆる辻褄が合わなくなる。この現象は別に、ファンタジー系世界ということに限らない。時代設定が未来へいく程ファンタジーに「見える」ことは事実かもしれないが、それによって物理現象の整合性がおかしくなれば、その世界観を、現実に準拠する観客の納得へと結びつけるのは、本来なら難しくなる筈なんだが。

これを、お約束という枠組みに押し込め、そのカラー、テイストを理解しないことが悪い、つまりは資格認定的な方向に持っていくことで、現在のおたく文化は成立している。踏み絵を抜けられない認識は排除する、それはそれで、世界を閉じることには大変効果的で、つまりは好事家の世界と云うのは、ジャンルを問わずそのような構造をしているものかと思われる。

が、その戦術では、現実世界とは戦えないだろう。現実的な認識、さらに云うのなら、現状選択されている以外のカラーに基づく認識との対話が、成立しない。これを放棄したところで成立する世界なんだから、当然と云えば当然のことなんだな。

つまりは、デフォルメであり、情報の取捨選択後、純化された状態でデザインされているということに他ならない。だから、そのテイストの中に、問題解決に必須の情報が含まれていなければ、その世界観は生き延びることが不可能ということになる。情報認識のメッシュ感がずれている場合にも、同じことが起こるだろう。生存のために選択しなければならない細い細いタイトロープが、見えない、目の前に存在していたとしても。ピクセルサイズが合わないので、ノイズとして消去されてる。

そして、そのような閉じた世界観は、外からの余波に対して、ほぼ無防備ということになる。だから、ある意味では、玉砕の運命を潜在的に取り除くことが出来ない。

ずっと以前から感じていたことがあって。唯一無二の神は、持続可能性を放棄したところで成立しているような気がしてならないんだよね。滅びの後の変化と再生を、選択出来ないからこその、全能神なのではないかと。本地垂迹は、とてもご都合主義手はあるけれども、スタイルに依存しない本質というのを表すには、高度な認識であるとも云える。それに対して、様式の変化を否定し原理原則に固執する認識というのは、結局のところ、中二病的なんじゃないの、というのか。

何処かで、他の神と妥協、対話、共存による自己の価値観の再生を選択しなければ、超長期では生き残れない、にも拘わらず、それを拒否することを美学とする、引きこもって外界から目を背け、その結果としてクライシスに対処出来ないことを、良しとしなくてはならないような。ま、それはさておき。

世界のカラーやテイストは、だから、情報共有のメッシュとして、大変重要なカギとなる。鍵穴のサイズを決めるんだから、当然だろう。単純な張りぼてや趣味全開でも、まあ構わないんだが、物語が生き延びる扉を開くことが出来ないのであれば、その世界は破滅の運命から逃れられない。逆に云うのなら、世界の終わりを描いていたとしても、そのテイストの中に、ちゃんと整合性が取れるだけの救済の仕組みを矛盾なく構築することが出来れば、その世界は未来へと生き延びるだろう。題材が終末であることが問題なんじゃない、物語の視座の中に、ちゃんとその道筋が見えるだけのその世界としての論拠が存在可能なのかの方が、よほど重要。それは別に、ギャグだろうが、偶然だろうが、力技だろうが構わないと思うが、たくさんの認識が納得を得るように心を動かすレベルを目指すのなら、それなりのちゃんとした構築が必要となるだろう。

そのひとつの指針が、物理法則である、というのを承前として。

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